写真を撮る人間としての好み


 以前からよく考えていることがあります。

 私もそのへんのカメラ趣味の皆さんと同じように趣味として写真を撮り始めたクチでありまして、とりあえず目につくものを片っ端から写真に撮りながら技術を磨いてきたわけですが、世の中写真を撮る人間としての好みと、ただの人間としての好みが完全に一致している人というのがいるんですね。

 たとえばラグビーをやっていた人が、自分が愛し人脈もあり内実がわかるラグビーを撮りたくなる、撮ると上手く行くというのはよくあることです。

 私の場合であれば音楽出身なので音楽関係の写真を撮るのが一番簡単だったと思います。実際、手当たりしだいになんでも撮りたい! という時期に、声をかけやすいのもバンドをやっていた時代の人脈からです。人間社会ってそういうもんですからね。写真を始めたからっていきなり新規人脈が出来るわけではありません。飛び込み営業していかないと新たな人とは繋がれないものです。

 そんなこんなで、写真を撮る人間も、写真を撮る前の、または写真を撮る以外の人生のパートでの好みが人脈を作り、それが写真のジャンルにも影響を及ぼす場合は多いと思うんですね。

 ですから、写真を撮る人間としての「何を撮ると楽しいか」という好みと、純粋にその人としての好みが一致しているパターンといえると思います。

ところが

 写真には色んなジャンルがありまして、日本で人気があるのは風景とポトレです。

 風景の場合は、あんがい色んな動機があると思うのですが、そもそも風景が好きで好きで、とか、前述のような風景に関わるような仕事をしていて、という方は少数派なんじゃないかなあ。

 実際に私がお会いした範囲では、カメラの機械としての面白さから勉強を始め、始めてからこれといったジャンルが決まっていないのでネタに困り、じゃあまあ誰も文句を言う人がいないジャンルとして風景をやるか、という人がけっこういます。

 そういえばフィルムを出しに行ったカメラ屋さんに六つ切りの風景写真がたくさん飾ってあったので、「風景写真がやっぱり人気なんですねえ」と壮年の店主にお尋ねしたところ「年を取ると日本の美しさというのは分かるようになるんですよ……」と言われたことがありまして、「そういうもんですか」と返しておきましたが、それは逆にいえばその方が若いころは気づいていなかったということであります。

 またポトレ撮りをしている人というのは、あれは根源的に性欲によって突き動かされているんじゃないのかなあ、と思うんですね。
 つまり写真的な好みとは関係なく、女が好き。男はだいたい女好きですから、何もおかしいことではありません。で俺カメラ持ってる。だから撮る、という。撮ると女子とコミュニケーションできて楽しいし。

 何もそれが悪いというのではなく、写真的な楽しみや好みを見出すよりも先に「そういうもんだ」と教えられた人がたくさんいるんだろうなと思うんですね。

 たとえばインターネット上で、日本語で写真の撮り方みたいな検索をしてみると、風景とポトレ、あとはテーブルフォトみたいなジャンルがどっさり引っかかってくると思います。

 その中で「風景? 面白いの?」「テーブルフォト? 奥様が撮るやつだろ?」「じゃあポトレ」という風になっている人も多いんではないかと思うんですね。私もカメラを買ったばかりの時は何を撮って良いか全然分かりませんでしたから、ネット上で見た情報を当然と思い込んでおりました。

 なるほど人物は中望遠で絞りを開けて半逆光で撮るんだなあ、というような感じですね。

 そういったテクニック的な部分は撮る回数を重ねてよりディープに写真世界に潜っていくためのきっかけとしてアリと思うのですが、前述の好みの部分が不整合になっているせいで、女好きかつカメラ好きだけど写真に入って行けない人というのがたくさんいるように思います。

写真好きでない

 カメラが好き、女が好き。だからポトレを撮っている。

 ネット上でよく見る先生が親切に「こう撮れ」って手取り足取り教えてくれるからそれの真似をするのだけど、何かが足りない。どうにも追いつけない気がする。

 それはなぜかというと、写真を撮ろうとしていないからです。

 わたくしYoutubeで写真を教える際、言語としての写真というのをことさらに強調しています。

 例えば絵を描くというのはキャンバスに絵具を塗りたくることでしょうか? 違うと思うんですね。絵を描くという行為がそこで完結するわけではありません。なぜ描くのか、なぜそう描くのか、なぜそう描いたのかをどう解釈するのか、というような営みをまとめて絵画である、絵画的な行為であると呼ぶのだと思います。

 それと同じように、シャッターボタンを押してもそれは写真を撮っていることにはならないんだよなあ、と思うんですね。

 これは何も私が誰かの写真を見て「写真になってないねー」と言っているのではなく(正直そう思うこともないとは言いませんが)、自分自身で「ああ押しただけになっちゃって写真になってないな」と思うことがよくあるからなのです。

 写真が面白いのは絵画のように作為がほぼ100%を占めるような芸術と違い、不作為の部分が大きいことです。つまり自分でどうしようこうしようと思ったところで、パーフェクトに思った通りになるとは限りません。静物写真だけは限りなく作為100%に近づきますけどね。

 でもその作為100%に出来ない、特に人物を相手にしていると自分も相手もぐにゃぐにゃを不定ですから、そこに一本の道を見つけて結果にたどり着くのが写真の面白いところです。そして撮る人、撮られる人に見る人を加えてコミュニケーションが成立するべく、何がどうでこうなった、というのを写真の中に折り込むんですね。

 実はそこにお約束などというものはありません。必勝法も必殺技もありません。ガイドも役に立ちません。
 会話で考えてみてください。ハワユー? ファインサンキューみたいな初手の挨拶以降は、会話をこう進めろというガイドはありませんよね。最低限これだけは守りましょうというマナーがあるだけです。写真の撮影もそれと同じ。

 そして写真言語とは、写真を撮る行為を通して写真を見た人に呼びかけることです。撮る人によって見る人によってコードや理解の深さは違うのですが、それも含め想像して作り込むんです。

 私はそれが写真言語であると思っているのですが、少なくとも日本の社会では写真にそういった期待をする人が少なく、単に好みのものを好きなようにパシャー、で終わってしまう、下手をするとプロ向けのごっついカメラを使っている人までが言語を感知したことがない、どころかプロと自称していても的当てゲームに終始している人すら頻繁に見る始末です。おねえちゃんが写真の四角の中に入っているだけ、という。

 私は以前から、プロとかアマとかの問題じゃないよ、そんなの関係ないよとよく言っているのですが、私が分けるのは写真言語を理解しているかどうか、学習しようとしているか。そこに尽きます。

 写真を始めたばかりの人は、幼児がダーダー言っているのと同じです。
 何もいきなりフルスペックでしゃべれ、読み取れとは思っていません。しかし読み取る必要がある、発する必要があると思った人だけが言語を習得しますから、私はそういった人を支援しているつもりですし、自分自身が同じ道を歩む同志と思っています。

 もちろん写真を撮る人間は写真を撮る、作る行為を通じて自分の発する能力を鍛えていくのが一番の近道です。

 音楽もリスナー100%の立場では理解できないことがありますからね。
 楽器が演奏できない評論家がどうしてもロマンに走った評論をしてテクニカルな部分に対する感度が低いように、写真を撮る人間にしか分からない領域がありますし、またそれも写真を撮る楽しみの一部でもありますから大事にしたいと思っています。

というようなわけで

 これは必ずしもそうなれという話ではないのですが、写真を勉強していると、自分の元々の好みとはまたちょっと違った部分で好みを見つけることがあります。

 私はそこが写真言語のスタート地点ではないかと思うんですね。

 たとえば私はマネキンにまったく興味がありませんが、写真を撮る対象としてはマネキンって面白いんですよ。

 それは写真で私が言いたいことを仮託できる相手としてぴったりということで、わたし個人の好みとは別に、写真的な好みとしてのマネキンがあるんですね。

 ただシャッターボタンを押すだけというのもレジャーとして替え難く、私も大いに楽しむところでありますが、それだと自分だけが楽しんで終わっちゃうことがほとんどなんですよね。

 より大きな楽しみを得たい人はぜひとも写真言語の学習をスタートしてください。


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