抽象写真は存在し得ないのか


 最近、夕食の際にYouTubeの「山田五郎 オトナの教養講座」チャンネルをよく観ている。その中で「ピカソは抽象画を描いていない」という話が出てきて感心した。

 たしかこのキュビズムの回だったと思うのだが、片っ端から観ているのでどの動画だったのか定かではない。どれも素晴らしい内容なので皆さん片っ端から観ていただきたい。

 抽象画の定義、調べてみると世の中のご多分に漏れず、抽象画具象画の区分はいくつかあるらしいが、山田五郎さんのおっしゃっていた「ピカソは抽象画を描いていない」というのは、ピカソはなんであれ現実のものをモチーフに描いており、厳密な意味での抽象画、すなわち「現実のモチーフを用いない」という定義からは外れるというのだ。

 私の乏しいイメージの中では、ピカソといえばよく分からん形に現実を捻じ曲げて描く抽象画の人という印象だったから少し驚くとともに、たしかにカンディンスキーやポロックなど著名な抽象画家の描いたもので、明快にこれという実存ベースのモチーフを見た覚えがない。

 その抽象具象の話が、最近私が運営している写真道場的オンラインサロン内向けに写真構図のテキストを作っており、その中で抽象について扱わざるを得ず、あれこれ調べたことと重なった。

 抽象というのは「かたちを引き出す」という意味で、自分がこれと決めた対象から要素を引き出すことである。日本語では抽象というとそこに観念的という意味が加えられてしまい、例えば「あなたの話は抽象的でよく分からない」という言い方をしたりするが、それは厳密な意味では抽象的というよりも観念的と言うべきであって、本来抽象というのは対象から要素を引き出す作業の側面が強いように思う。

 抽象画は結果として引き出されたものを描くので、引き出す元となったものを描いてしまっては抽象画にならない、というのが一番厳密な解釈らしく、であればピカソがモデルの女性をどれだけ難しい形で描こうが、女性を描いている限りそれは具象の絵であって抽象画ではない。

 ということは、抽象的な写真というのは、厳密な意味ではありえないのだ。

 ファインアートの世界にはabstract photographyというジャンルがあり、直訳で抽象写真と呼ばれるものだが、これはポートレートや建築のように明快な被写体を設定せず、主にテクスチャーであるとか強い形のみを使って画面構成をするものを指す。

 しかし写真が写真である以上何か写さねば写真として成立せず、写るということは被写体があり、被写体があるということは具象である。

少し抽象的に見える白い木箱の写真。

 アート写真の歴史は振り返ってみれば写真の限界を越えようとする行為とほとんど同等だったように見えるが、写真がカメラを使わねばならないこと、画角の制約を受けることと同じように、何かしら実体のあるものを(それが煙のようなものであったとしても)写すことでしか成立せず、あまりに突拍子もないことをすると「それは抽象具象以前に写真か?」という話になってしまう。

 つまり写真はどこまで行っても機械を使って現実を盗み取るのが仕事であり、そこから抜け出すことは不可能だ。

 実際の抽象写真は、そこまで厳密な定義では成立しないので、印象的かつ実存を感じさせる度合いが低いものを扱った写真を抽象写真と呼んでおり、私もそれはそれで好きだから異存はない。

 ただ、西洋人の基準では、抽象概念を扱うのがより上位という風潮があり、写真はどうしても具象を扱うから下位のポジションに入りがちだ。これは機械を使う芸術であること、複製が容易であることとはまた別に写真の価値を下げやすい要因だろうと思う。

 もちろん写真家たちはその具象の檻の中でいかに抽象的に(ここでは日本語らしく観念的という意味合いが強い)写真を作るかに腐心しているように思うし、実際に良い写真は多かれ少なかれ対象の要素を巧みに抜き出し、その抜き出した要素が鑑賞者の目に飛び込むような抽象的なものばかりである。

 私としては、ど真ん中で具象を扱う写真の卑俗さがむしろ気に入っているところもあり、また同時に要素を抜き出して扱う点も自分の感性が試される意味で面白いが、最近は言葉により積極的に取り組んでおり、言葉が具象などありえないレベルで抽象的なことにより面白みを感じている。

 つまり写真はほぼ具象のもの、言葉がすべて抽象のものと割り切れてしまうところが心地良く、脳の使うパートがきれいに分かれている感じがする。

 デジタル写真がすべてスーパーマリオのようなドット絵の拡大版であるように、実際は被写体そのものを写しているわけではなく、間にあれこれ挟まっているのだが、鑑賞者からすれば思い切り具象のものであると認識されている点は、技術として写真を扱う上で最大のポイントであるように思う。


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