西東京の記憶


 西東京から常滑に引っ越して、はや1ヶ月が経過した。その間あれこれ忙しかったこともあり、ふと気づけば西東京の記憶がかなり薄れているのに気づく。なんとも薄情なものであるが、直線上の時間に生きている我々はシーケンシャルに今を生きるしかない。

 写真を撮っていると、記憶を代替してもらっているような気になることがある。これほどまでに記憶と結びつきの深い機械もないのではないだろうか。逆にいえば、その時その場所にそれがあったことを、未来の自分を含む他者に見せたいという衝動以外に写真を撮らせる動機はない。

 引っ越した後も西東京の自宅を出たところでよく遭遇した緑の目の、しっぽの短い猫のことだけが心配だったが、この猫をちょっと遠くからスカウトしてきて、寒い時期暑い時期は自宅に招き入れて保護している仲の良いご近所さんがきっと面倒を見てくれるだろうと思うと、少しは安心である。

 西東京には7年だか8年だか住んでいた。その間にやたらと歩き回っては、毎年どこで何の花が咲くか詳細に覚えたものである。写真を撮ると、撮った写真に記憶が強化されて公園の桜の木の枝ぶりまで覚えてしまう。きっと常滑でも同じことをするのだと思う。それぞれの町で咲く花の違いが、それぞれの町の違いなのだろう。

 まだ冬だから常滑ではほとんど花が咲いていないが、一体どんな花が咲くのか。それを知るのが今から楽しみである。


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