写真にするとは


 昨日の「スナップのすゝめ」、気に入っていただけた方もいたようで、Twitterでちょいちょいリツイートの通知が来ておりました。私の周り、基本的に写真を撮る人ばかりなもので、そのあたりのネタが響くのはさもありなんという感じ。

 しかし当ジャーナルブログは写真を撮る人に限らず、むしろ写真と社会をつなげていきたいという目論見でスタートしているので、スナップのすゝめを見て写真を始める方がいたら嬉しいです。

 どちらのカメラを買ったら良いですかみたいな「どっち系」質問には回答しませんが、写真を撮る上で悩みがちなことはけっこう共通ですから、とくにYoutubeを通じて悩みを解決しよう系のお話をよくしております。

写真にならない

 その中で、真面目な人ほど悩む「これ写真になってなくない?」問題について今日は書こうと思います。

 シャッターボタンを押して写真を撮っているはずなのだけれども、単に「写った」だけになってしまっているのを自分で感じる。あああの人の撮る豊かな写真と俺の写真は何が違うんだろう、という感じ。その違いを指して「写真になる/ならない」と呼んでいます。

 写真を良い感じに撮るには、一体どういう条件があるのか? 私もほそぼそとではありますが職業的に写真を撮ってきましたから、一体どういう写真が良い写真なんだろう? というのは考えるのですが、それ以前に、そもそも写真として成立しているかが大事なんですね。

 写真になっているかなっていないか、その違いは、他者とのコミュニケーションを前提に撮られたものであるかどうかです。

 写真は撮る人と見る人のコミュニケーションでありまして、実は撮られる人はそのコミュニケーションにあまり参加していません。
 参加していないというと言い過ぎに感じられるかもしれないですが、写真は「撮る人が被写体を見てどう感じ、それを二次元化したかを見る人に伝える」芸事なんです。

 私は特に美術教育を受けたわけではありませんが、やればやるほどこういうものだと確信を深めています。

 たとえば沖縄を撮ったとしましょう。写真を軸に考えると、写真を撮った人が写真を見る人に「沖縄こんな風だったわ」と語りかけるのが写真でありまして、沖縄が見る人に語りかけるわけではありません。見る人がそう錯覚することがあったとしても、それは撮る人が上手いからそう感じちゃうだけ。

 沖縄は沖縄として厳然とそこに横たわったまま、別に何も言ったり発したりしないわけですよ。

 じゃあ人物ならどうかというと、写真を見た人が、写真を見ることで「アイドルのなんとかちゃんが俺に語りかけてきている……」と思うこともあるでしょうが、それは写真として二次元化されたものを見て見る側がそう感じているのであり、実際に語りかけているかというとそんなことはありません。

 宣伝、広告ではそのあたりを錯誤させる、誤認させることでものを売っているわけで、しかも写真のように複製性の極めて高いメディアは非常に便利です。

 写真論として考えると、この「見る人に語りかけているように錯誤させる」のが写真技術であり、とりあえず他人が見た時に「これは私に語りかけるために撮られた写真なんだな」と最低限のラインを上回っているのが「写真になっている」写真なんじゃないかな、と私は考えています。

テクニカル過ぎる?

 言葉にすると詐欺師の手法みたいですが、写真のテクニックってそういうことと私は思うんですね。天才の人は、何も考えずともその手法が身についてしまっており、空中からいきなり水を取り出せる人みたいに、常人が理解できないプロセスで見る人の感情にアクセス出来る人。

 そういう天才にテクニックについて聞いても常人が理解できる言葉が返ってくるとは思えないので、我ら常人はたとえばABテストを常にして「これとこれ、どっちが自分の目指している感情表現に近いんだろう?」というのを繰り返していくしかありません。

 まあ私みたいな常人凡人は、そのABテストのAとBの設定がそもそも間違っていたりするんだろうなあ、と思ったりもするのですが、やってみなきゃしょうがないですし、そういうテストも楽しいですからね。

 何はともあれ、写真にする、というのは、最低限いくつかの条件をクリアする必要があると思うんです。

  • 他人が見る前提で撮っている
  • 他人が見た時に伝わる撮り方が出来ている

 まずはこのふたつじゃないでしょうか。

 他人が見る前提で撮っているということは、他人より前に自分がその写真を見て「よし、俺の中の他人の目で見ても言いたいことは伝わる」ということですから、単にシャッターボタンを押すだけの、撮り散らかす人の写真が写真にならないのは自明の理ということになります。

 押すのが楽しいだけ、も全然アリだと思うんですよ。それはカメラ趣味の範疇であり、私も無責任なスナップって大好きですから。

 ただそれを「写真だ」という扱いにするのであれば、写真=コミュニケーションですから、コミュニケーションの道具というか方法そのものとして写真を撮らなきゃならないことになります。
 言語でいえば誰とも共通の語彙や慣用表現なんかを持たないまま、ただ口からダラダラ言葉が流れ出るだけの状態になってしまっている例が多数あります。何を言っているのか理解できないのに他人が感動することはまあない、あるとしても偶然に任せるしかないでしょうし、自分すら理解できない言語を聞かされていると普通は嫌になります。

 嫌になるとどうなるかというと、「自分が撮ったのを見てもらうために他人の写真を嫌々だけど見てあげる」みたいな場が生まれるんです。不毛ですよそれは。

プロトコル

 私も日本で生まれて育って、成人してからカメラを持ってしまった人間ですから、いきなり「写真を見ろ! 絵を理解しろ!」と言われてもピンと来ません。でも順当にカメラを扱えるようになると次は絵の構成、つまり構図の問題に差し掛かってしまいますし、そうなると自分の作る絵で他人とコミュニケーションしないとならないわけですよ。
 写真にくっつけたキャプションや、しゃべくりで「これはこんな風に撮る時に苦労して」と説明しようという話ではなく、写真そのものが勝手に語ってくれなきゃ困るんです。

 その時にふと思ったのは、これはカメラを扱う芸ではなく、絵の構成を使って自分が言いたいことを他人に伝えるプロトコルの学習が別途要るんだなということ。

 写真は面白いもので、カメラを使わないと写真は撮れません。

 ですから、このプロトコルを勉強しながら、同時にカメラの操作も上手くなる必要があるので、どちらだけが上手いというのでは写真として良い感じになりません。

 世のおっさんたち、嘆くよりも先に自分の目を鍛える努力をしたほうが、機械を扱う技術も後で活かす事ができるんですから、どんどん絵を見る、理解する能力を鍛えていった方が良いですよ。

 私もおこがましいとは思いながら人の撮った写真の添削をよくしておりますが、「伴さんなんで撮った側の気持ちとか事情がそんなに分かるの!?」とよく聞かれるんですね。そりゃ撮った量と見た量が違うんだよバカ野郎としか言いようがないので、皆さんもガンガン撮ってガンガン見れば、どれくらい自動的にかは分かりませんが見る能力が上がる筈。たぶん。上がらないときは別の方法で注入しましょう。

 それではまた。


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