旅ブログアソシエーションは存在するのか


 先日、Twitterで貯金17万円しかないが世界一周したいので支援してくれという28歳青年のツイートが流れてきた。

 面白かったのは、そのツイートを別の旅ブロガーのアカウントがかなり強い言葉で罵っていたことだ。罵倒している方のプロフィールを見ると何カ国回ってきた、ブロガーである、世界一周、というような、その界隈でよく見る文言が踊っている。

 罵倒ツイートは要約すると、世界一周しようとしているのにそんな計画性がないクズをクラウドファンディングで支援してどうするんだというもので、そのツイートのリプ欄には同じく自らを旅上手と認めるアカウントが集まって罵詈雑言を連ねていた。どうせ世界一周に出たところで大学生が書くような薄っぺらいブログを書くだけなんじゃないの、というような。

 たとえ大学生が自分探しの果てに書くようなつまらない旅ブログになったとしても、それは個人の問題なのだから良いではないかと思うのだが、旅巧者を自認する人たちからすると我慢ならないらしい。どうもアイデンティティーの一部あるいは大部分を旅という無形のものに委ねていると、その旅の定義が自分のものから外れた人を見た時に強い嫌悪感を抱くもののようだ。
 このブログも旅要素がないこともないので、彼らの定義から外れていると見なされたら非難の対象になるのかもしれない。

珍しいもんを見た選手権すらやる気がない当ブログ。

 私からすれば、業として請け負って他人の予算で行くものでなければ旅はごくパーソナルなものでしかなく、だからその結果をブログを書いたり読んだりするのは互いに個人の自由で、求められる資格も質も何もないだろうという感覚である。資格なしに好きなことを垂れ流せるからこそインターネットは面白いのではなかったか。ひょっとするとそういった資格を定めた旅アソシエーションみたいなものがあるのかもしれないが寡聞にして知らない。

 私が見る限り、旅ブログの世界というのはプロフィールのインパクトが肝心で、世界を何周したか、何カ国を回ったかで勢いをつけて情報を投げないと見てもらえず、商売になりにくいものだ、と少なくとも情報を投げる側が認識しているらしいという印象だ。
 これは言い換えると情報の属人性が低いということだ。カメラマンと写真作家の違いに似ている。

 つまり旅ブロガーは収益化できていたとしてもほとんどが作家ではなくライターであり、ライターはユーザーに役立つ情報を配布するのが仕事である。事実の整然とした羅列が仕事のライターが文体で個性を出すと邪魔だから、ライターであれば属人性が低いことは悪いことではない。少なくとも私は旅情報を求めて行った先でライターが泉鏡花のように文体の美しさを目指していたら、その媒体が紙であれWEBであれすぐさま閉じるだろう。求めているものが違うのだ。

 商業カメラマンが撮った写真は誰が撮ったかなど気にされないのがある意味で誇りである。誰が撮ったかは知らないがきれいだから写っている商品が買いたくなる、で良いのである。カメラマンの評価はB to Bの閉じた業界内で行うのでCの消費者に求める必要はない。商品の写真からムンムンと撮影したおっさんの情念が感じられるようでは売れるものも売れないだろう。

 プロフィールに何を書くかは当人が当人をどう見なしているかがそのまま現れるから、旅ライターの何カ国、世界何周プロフィールはそのままその旅ライターが他者から価値を感じて欲しい部分である。属人性が低いと見なされる旅情報に属人性を付けて高く売りたいのだ。世界何周で足りなければ、いかに危険かのエクストリーム勝負になっていく。ヤンキーのシャコタン競争と変わりがない。

 旅メディアで情報を享受している、買っている側からするとプロフィールのインパクトによって情報を手に取りたくなる度合いが変わるものなのかもしれない。人間とは大なり小なり権威主義的な生き物だ。実際どんな情報でもとにかく最初の一度見てもらわねばその後がない。その点においてはプロフィールの大きさ競争になってしまうのも理解できないことはない。

 またプロフィールによって売上が変わってしまう、地位が変わってしまうと思うからこそ、今回の17万円の人のように世界一周が他力本願でも達成できてしまうかのように思われることに対して嫌悪感を抱くのだろう。だが本当に問題はそこだろうか?

 どのみち見ている側はほとんどがちょっとした息抜きに情報を消費することを求めているだけである。そういう意味では食えている旅ライターは商業カメラマンとほとんど違いがない。誰を起用するかはカメラマン同士の合議で決まるのではないのだから、ライター同士でつるんでも意味がないし、そこで叩き合っても得るものはないように思う。

 そもそも旅で自分探しをすること自体が間違っているのだ。
 自らの素晴らしさを頭から信じ込み、それに値する環境が天から与えられていないことを嘆いてするのが自分探しである。スタート地点が間違っているのだから、どれだけ探しても見つかることはない。自らを檻に閉じ込め、その檻のまま世界を巡っているのだ。珍しいものを見て回っているつもりでいて、見世物になっているのは自分の方である。

 ではどうすれば良いのか? 私の回答としては、自我を見出そうなどと思わず作業に埋没することである。狂ったように反復することの中で自分を見出すしかない。ごく普通の人間がごく普通に暮らしの中で繰り返してきた営みの中にこそ人間性は発見できるだろう。ミニマルな繰り返しの中にしか人間は自分というものを見出せない。旅のような非日常で脳を痺れさせ、そこで自我を見出そうというのは本末転倒なのだ。

 今回の一件で、旅は飽くまで日常の副産物であり、本業をしっかりやって地位を築いているからこそ旅エッセイや紀行文に価値が生まれるのだなという思いを新たにした。


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