ひとり商業写真は出来ないものか


 写真を撮ることで生活の糧を得ようとすると、ほとんどの場合、すでに世の中にある仕事あるいはそこから派生した仕事をすることになる。

 つまりそれはほとんどの場合、いわゆるカメラマン仕事である。カメラマン仕事は営業写真と商業写真に大きく分類され、大都会およびその近隣に住んでいなければ商業写真の仕事はほとんどないので学校写真や婚礼写真といった営業写真を撮ることになるし、私もカメラマン仕事のスタートはそういった営業写真カメラマンとしてのものだった。

 しかし営業写真はやった数だけしか収入が得られない肉体労働であり、そこから脱しようと思ったら自分と似た境遇のカメラマンを連れてきて労働を肩代わりさせ、経営に専念しなければ儲かることはない。

 営業写真が写真を撮っているだけで儲からないのには二つの理由があって、著作権が強く働かない領域なので権利収入が得られる見込みがないこと、またデジタルにより新規参入が容易になり単価が下がり続けていることである。

 私が営業写真をやっていた頃は、フィルム時代からの生き残りカメラマンたちが「フィルムの時代、地域によってはご祝儀だけで生活できた」と言っているのを聞いたりして、まあたしかに田舎とはいえデジタルの感覚では大して儲かりようもなさそうな町の写真館が小さいとはいえ自社ビルを持っていたりするのだから、タクシー運転手が戸建住宅を買えた時代もあった、というような感覚で「昔は儲かったんですね」とぼんやり返事をしたものである。個人で営業写真をやって自社ビルが建つというのは、現代の感覚では想像もつかない。

 そうした現状を知ると、野心のあるカメラマンは商業写真を目指すようになる。私もその典型で、理由はいくらでも挙げられるのだが金銭面を除けば「もっと難しいことがしたい」という欲求、次が幸か不幸か他人の幸福を撮るのが仕事である営業写真に全力で埋没できるほど良い人ではなかったことだ。良い人でないのを糊塗できるほど優れた嘘つきでなかった。

 商業写真は全般的に営業写真と比べると単価が高い。仕事も意外にたくさんある。
 ただ仕事の流れがB to Bなので、どこから仕事が発生してどこに流れるのかを知り、その流れを遮って入るのが難しい。それでも人が沢山いる場所を選んで住み、きちんと営業ができれば(そしてもちろん腕が良ければ)食うには困らないだろう。

 さらにしっかり稼ぎたければ有力なコネをつかむための足場づくりからスタートしなければならないが、とりあえず最低限食えるレベルを目指すなら、人のいない田舎で営業写真一本で食うよりはマシな稼ぎが得られる筈だ。

 一方、私は商業写真を始めて数年経過した時点で、商業写真をやり続けたところでこのあたりが限界だな、という天井が見えてしまった。要はいかにコネを作る営業努力を継続できるかが勝負なのである。仕事を増やすにはひたすらあちこちに顔を出して仕事を振る権限を持っている人間の幇間をしてやることだ。

 実際、日本でアートか商業か曖昧なところで仕事をしている写真家諸氏の、広告代理店のADに対する涙ぐましいまでの営業努力を見ていると「そうまでしないといかんのか」という気持ちになってくる。むしろ経済が縮小する世の中では、それをしないと切り落とされていくのだろう。私はそれを見てなんだかアホくさくなった。

 構造を考えてみれば、メーカーが何かしら商品やサービスを作り、それを売りたい、となった時、写真だけあっても仕方がないのである。カメラマン仕事をしていると大なり小なりメーカーと直接繋がることがあるのだが、カメラマンとクライアントが直接繋がっても広告は出来ないし、写真を撮って文字を載せてそれっぽいものを作ったところで、有効な媒体に掲載しないとそれは広告として機能しないのである。広告とは制作物のことではなく、それが世の中を巡ってお金を集めてくることである。

 だから広告写真というのは、写真を撮る側から見れば広告のために撮られた写真だが、広告サイドから見れば、写真を使っているかどうかより世の中に広く情報が撒き散らされることのほうがよほど重要である。なんなら文字だけでも線だけでも、広告として有効に機能してくれればそれで良いのだ。
 だから良かれ悪しかれ写真は広告のパーツでしかない。写真技術が広告の効果に与える影響が小さいとは言わないが、広告を目にする人々からすればキャスティングの方がよほど重要である。著名人がそうでもない技術で撮られた写真と、全く無名の人が凄い技術で撮られた写真。広告として効果が大きいのは前者である可能性が高い。

 そうなってくると、果たして広告写真家、商業カメラマンがそんなにカッコ良い仕事だろうか? と思えてくるのである。

 営業写真と比べれば複製頒布の回数と範囲が大きいから、と著作権料を上乗せして貰うから見かけ上の収入は大きくなるし「広告を撮っています」といえば何となくカッコいいような気もするのだが、結局は下駄を他人に預けていることに変わりはない。仕事を振ってくれる誰か、掲載してくれる媒体がなければ即座に干上がる仕事である。

 もちろん社会は互いに下駄を預け合い、互いを人質にし合うことで成立している部分は大いにあるし、その相互監視のおかげで高い倫理観を持ち合わせていない人間でも社会生活を営めている部分はある。
 だが私個人としては徒手空拳で社会から直接富を引っ張り出すインターネット中心の仕事の仕方が性に合っている。代理店だのなんだの、間に入るものは少なければ少ないほど良い。私は次第に、広告のように写真がなにかのツールになるのも嫌いではないが、写真が直接価値を生む仕事の仕方はないものか、と考えるようになった。規模は小さくて良いのだ。

 最初は撮った写真を換金するのであればアート商売なのだろうかと思った。しかしアート商売を外野から学んでみても、上位はヨーロッパやアメリカの金持ちがさらに儲けるためのシステムであり、下位は美術界と関係なくただ成果物を売っているだけなのだから土産物屋とやっていることが変わらないのに、プライドだけ保つための自称プロアーティストばかりだ。あれは実家が太くない人間が真似をすると間違いなく痛い目に遭う。

 となれば、肉体労働でなく、著作権でマネーを生み出すことが出来、アート市場に面倒を見てもらうでもなく……という写真商売を考えることになる。

 最終的に、人間が見たいものを見せることが商売になるのは間違いないだろう。撮ったものを売るのでも、撮る作業を売るのでもなく、見る権利を売る方向で決めた。

 このジャーナルブログで職人のおっさんを取材撮影するのもやりたいが、職人のおっさんを課金してまで見たい人間というのは世の中にそういるものではない。言い換えると「見たい!」と思われる強度がそもそも低いのである。
 実際に愛媛での取材をさせてもらって記事としてまとめた後で、そういえばこういった記事は広告収入で成立している媒体が撮らせ、書かせるものであって、それがメインで成立するのはナショジオくらいなものだと気づいた。一人ナショジオ、大いにやってみたいものだが莫大な予算がかかってしまう。

 もっと強く人間が見たいもので、私が撮ることができるものは? と考えたら、根源的な欲求として人間は人間の肌が見たい、そこには容易く課金しやすいという結論に達した。有り体にいえば裸が見たい人間は多い。見たいどころか、逆らうことができないレベルでどうしても見てしまう人間が多い。

 写真を撮っていると、人間を撮るのは面白いが同時に畏れを感じる行為でもある。相対している人間の存在に尊さを感じるからこそ恐ろしい。
 ましてやそのまま外に出れば捕まるような姿を撮って他人の前に写真として供するなど、よほどの信頼関係がなければ出来ることではない。また実用上の面でいえばどこで撮るか、どうモデルになってくれる人を探すのか、気持ちが良い肌表現は一体どういうものなのかなどなど取り組むべき課題が多い。

写真技術の根本からいえば風景も人物も一緒。

 しかしどこかの媒体に掲載してもらわないと仕事にならない撮影仕事と比べると、人事権を握る誰かに頭を下げる必要がないので気が楽だ。広告の出稿を頼む必要もないから内容も方向性も自由自在である。週に一度、嫌がらせのようにガリガリスナップ写真を送りつけているPatreonだって喜んで課金してくれている人がいるのだ。自分が好ましいと信じることをやった方が同じチャンネルを持った人に響くに違いない。

 これから先、まだ見たことのない美しい人間を前に写真技術を振るうことが出来るので楽しみである。きっと学ぶことが沢山あるに違いない。


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