写真と自信


 こんにちは。今日は良い天気なのでキーボード打ちが異様に捗ります。Patreonに先日行ってきた高円寺の写真をアップしました。これ今はじめて知ったのですが、漢字で記事タイトルを付けると、勝手に中国語変換されたURLが付くのね! 「高円寺へ」が「gao-yuan-si-he」だそうで。

 高円寺の町中でスナップをしていると「こいつ、一体何をしに来た……?」という目で見られる人が多く、そのほとんどがいかにも高円寺らしい感じのアプレゲールみたいな皆さんだったことが非常に印象に残っています。
 私だけの印象かと思ったのですが、当日一緒に現地に行った写真仲間たちも異口同音でして、そういう土地柄なんだなあ、と理解しました。

 別に写真を撮っているからといって攻撃されることはなかったのですが、高円寺みたいに色んな意味で芸人が沢山住んでいそうな土地柄で写真を撮る行為が奇異の目で見られるのはちょっと不思議です。たとえば公安の監視対象になっている過激派が多数潜伏しているとか、そういう事情でもあるんでしょうか。

写真撮られたくない感

 高円寺に限らず、世の中には写真を撮られたくない人というのがおりまして、下手をするとその人を撮ろうとしているわけでもないのに、カメラを持っているこちらにいちゃもんをつけてきたりします。

 極端な話、誰の土地でもない公共の場所で花を撮っているような時にすら「許可を取ったんですか?」といちゃもんをつけてくるおばちゃんなんかも実際におりまして、自分にとってなんとなく不快だから圧力をかけて排除しちゃおう、という対象に写真を撮影することが含まれてしまっているなあ、というのを痛感する次第です。

 恐らく昭和の時代は日本国内でもそんなことはなかったでしょうし、今でも国外に出ればその忌避感はぐっと下がるのを、私自身も実感しています。インドなんかに行くと「さあお前の持っているそのカメラで俺を撮れ!」という人がたいへん多いと聞き及んでいます。なんて羨ましい。こちらは撮りたくてしょうがないんですよ。

 彼我の違いが一体どこから来るのか? と考えると、それは自分が自分であることに対して自信を持っている人が多いか少ないかだと思います。

 人間を撮っていてつくづく思うのは、日本人って楚々としてシャイで善人で、まあその代わりに陰湿ではあるのですが、基本的に一緒に暮らすには最高の人種なのですが、写真に撮ろうとすると強度が足りない人がほとんどです。顔が弱いんです。顔の作りというより、自信の問題です。

 自分が自分であることに対する自信といったら良いのでしょうか、「俺は俺だ」という強さがありません。だからこそわがままレベルが低く、一緒に暮らしやすいんですけどね。

バラの花咲く奥様

 たとえば私がそのへんをウロウロしていて、庭先にバラの花を咲かせまくっている奥様がいたりします。

 そういう方に、きれいなので写真を撮っても良いですか、と声を掛けると、どうぞどうぞ! と快く撮らせてもらえますし、誇らしげです。だって綺麗なんだもの、撮らないほうがおかしいでしょ、という。

 俺を撮れ、というおっさんも、自分が自分であることに対して自信を持っているという点で同じでしょうし、その逆にどれだけ素晴らしいものを持っていたとしても、その価値に自分自身が気づかず、自信を持っていなければ「なんで写真に撮る必要があるの?」という気持ちになり、カメラを持った人間に対して「価値のないものをわざわざ撮ろうとするこいつはおかしい」となるのかもしれません。

自信

 このジャーナルブログで働く人たちを撮らせて欲しい、とあちこち声をかけており、コロナがなければもうちょっと自由に取材活動が出来ていたはずで、今後じわじわ伸びていくとは思いますが、やっぱり国内で働く人を撮るのって難しいんですよね。

 国内で撮らせて、と色んな人に声をかけてみてOKをもらえるのは、基本的に当人が写真に興味がある場合と、撮られる人が写真を使った宣伝をしっかりやりたい場合くらいしかありません。ほとんどの場合、私自身が無意識のうちにそうなっているように「いやあ俺の仕事を撮っても別に面白くないと思うよ」と感じているんではないでしょうか。

 それは言い換えると、自分がしている仕事が社会に対してどれくらい重要で、どれくらいの人に影響を与えうるのかという効果の部分で「そう大したもんじゃないよなあ」と思ってしまっているんじゃないでしょうか。日本人の場合、特にそこを過小評価する人が多い気がします。

 「俺を撮れ」タイプの人が多い国では、おそらく仕事をしている人たちが「世界を動かしている」くらいの自信をもっている筈です。そんなもの根拠なんて必要ないですからね。
 もちろん日本のように、「あいつは自信を持っているぞ」というだけで足を引っ張る対象として見られる社会の場合、実際には自信を持っていたとしても持っていないふりをするのが処世術としては正しくなってしまいますが、少なくとも撮る側、取材をオファーする側としては対象者が自信を持ってくれていたほうが楽なのは間違いありません。

 実際、業としてイベント撮影を撮影していて思うのは、イベント撮影って撮影を依頼する主体が、「これは後世に記録として残さないと」と思うから発注してくれるわけで、内容がなんであれイベントに対して重要性を感じていないのであれば、スマホで1,2枚会場の様子を記録しておけばOK、と思われてもおかしくありません。

記録の重要性と歴史

 自分や自分の仕事を記録に残す必要をどれくらい強く感じるか? それは社会との繋がりに加え、自分と歴史のつながりをどれくらい強く感じるかもあるかもしれません。現在私たちが過去の出来事を歴史として認識出来ているのは、それが勝者によって歪められてどうこうという問題はあるものの、写真に限らず何かしらの記録として残されていたからこそです。

 家族の歴史すら断絶気味の日本人にとって、そういう点からも自分のやっていることを歴史に刻む必要性をあまり感じないかもしれませんし、それは同時にドキュメンタリー分野に熱心な人が少ないことの原因のひとつになっているかもしれません。

 写真を撮る側としては、人が何かをしているだけで十分に題材として面白いので、さまざまな職業人を撮りたいと思っています。気になっている方は恥ずかしがらずに声をかけてくださいね。写真で自分の仕事を残すのって、良いもんですよ。素晴らしいことですよ。

 それではまた。


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