記憶容量のオーバーフロー


 そういえば、いつからかドラマや映画のキャラクターの名前が覚えられなくなりました。

 昔は好きなバンドのメンバーや、アルバムが何年にどこでレコーディングされて、エンジニアが誰で、というような些末な情報まで競うように覚えていたのが、最近ではストリーミング再生で「お、いいね」と思うような音楽に出会っても、それが誰の音源で、シンガーは誰で……というようなことにはさほど興味がわきません。

 同様に映画なんかも、映像としてだけではなくドラマとして印象的であったとしても、キャラクターの名前まで覚えていることはまずありません。これは情報に接する回数(言い換えるとしつこさ)の違いもあるとは思います。例えば刑事もののだとして、単発の映画と何シリーズも続くドラマでは登場人物が互いの名を呼び合うのを耳にする機会が格段に違います。

 また定義によっては私も中年に入り、脳は確実に衰えてきているわけで、そこへさらにコロナ禍で運動不足、対人刺激不足まで加わっていますから、覚えることが出来ない以前に興味を持つ強さもどんどん下がっている実感があります。つまり欲がないんですね。

 自分の中に、自分が大事だと思うあれこれの事柄をどれだけ蓄えておけるかというのは、ひょっとすると人間の価値として数えられるのかもしれません。

 オタクの人たちを見ていると、自分の脳内いっぱいに自分の好きなものを蓄えて、また同様に蓄えている同好の士と楽しそうにやりとりしておいでで、実に楽しそうで良いなと思います。

 私もちょいちょい撮らせてくれるこの猫のことをどれだけ知っているだろう、と考えると、これだけ写真に撮っておきながら「目が緑色」「しっぽが短い」「あとは大体茶色」くらいのことしか覚えていない事実に愕然とします。

 また、対象の情報をどれだけ精細に蓄えているかと、対象にどれだけ深く愛情を持っているかの相関についても気になるところ。実際どうなんでしょうね。下手をするとストーカーの愛が一番深いということになりかねず、また刑事もののドラマのように期間を長く、密に接していれば愛情が深いということにもなりかねないですが、まあそんなことはないですね。

 三島由紀夫の名言に「愛は断じて理解ではない」というものがあるそうで、たしかによく識っているかどうかと愛しているかどうかは関係ないものなあ、ただ愛していればこそ対象を深く知ろうとする動機が働くことはあるのかもしれない、と思います。

 そう考えてみると、やはり最近(といってもここ10年以上)、他人の創作物の登場人物やなんかが全然覚えられないのは、興味のなさと情熱のなさと能力の低下と、それらすべてによるもののようです。

 すべて忘却した後に残るものが何か、というのも見てみたい気はしますが、まだちょっと早いと思うので意識して情熱を保持できるようにしないといけません。


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