撮らねばならぬほどの動機


 こんにちは。今日の東京は寒々しく、こういう天気の時は何となく自省的になる気がします。

 最近、どこかへ写真を撮りに行った際に、あまりに自分がシャッターボタン押しマシーンになっている、それじゃいかん、もっともっとコミュニケーションのための写真を撮らないといかん、というのを痛切に感じておりまして、そのあたりのことを考えるのに脳内メモリのほとんどを充てている状態です。

 私の感覚ですと、これまで写真を撮るために旅に出る時というのは、自分がどこかへ行くというより、ドリフのセットのように自分の周囲がぐるぐるっと勝手に変化して、最終的にGoogleストリートビューのように「ぼとっ」と現地に投下されるようなイメージを持っておりまして、正直どこでも良かったんですね。

 だって普段見慣れたところから離れて好き放題撮れる、写真だけ撮っていれば良いなんて最高じゃないですか。その時点でパラダイスですから、それ以上にどうこう、というのは考えたくありません。もうこの時点で間違っているといえば間違っているのですが、それはブログという媒体で他者と写真を通じたコミュニケーションをしようとした場合に限ったことで、たとえば作例を撮るであるとか、このレンズを使うとこんなに楽しいぞ! と伝える上では全く問題がありません。むしろ変に深く考えない方が良い可能性すらあります。俺が俺が、で誇張された写真を撮られても作例としては邪魔ですからね。

 ところが、このブログを始め、Patreonを始めてみると、俺は一体何をどう撮れば良いんだろう? 何を期待されているんだろう? というところから遡って再検討する必要が生じてきました。当初は女性美を撮って見てもらうか! とやったものの、やっぱり違うっぽいな、ということで方針を転換したり。こういうのはやってみないと分かりません。

 YouTubeやTwitterなんかでは、ほとんどレンズテストやボデーテストの結果を流しているようなノリになっておりまして、それはそれで作例写真家的なポジションで快適なのですが、このブログのTwitterアカウントを開設するに当たって「考えてみりゃ写真をやらない人に写真が伝わらないとダメじゃん」と気付きまして、じゃあ一体そういう写真はどういう写真なのか、という疑問が生じます。

 そこでふと、自分がこれまで撮影してきた写真を振り返ってみると、ディレクター不在のまま、ひたすら撮りまくっているんですよね。

カメラマン脳

 カメラマンという職業は、自発的に「これをこういうふうに撮ると良いんじゃないかなあ」と自ら企画立案することがありません。日本語の妙で、業種を「フォトグラファー/写真家」にすると企画立案に関わる可能性が高まってくるのですが、カメラマンというのは元々「撮る職人」であります。
 それがしんどい時もありますが、職域を限られることで実力が発揮できるタイプの職人系の人間には向いておりまして、私なんかは確実にそのパターンです。

 つまり家を建てるとして、どういう家を建てるかはディレクターの仕事であり、職人の仕事ではありません。こういう範囲でこういうものが欲しい、という要件定義がきちんと出来ないクライアントは、カメラマンにとっては面倒なクライアントです。フォトグラファーにとってはディレクション能力が発揮できる良いクライアントかもしれませんが、普通は要件を定義するためにディレクターが入ります。

 家を建てる場合、ディレクションを設計士がやるのは確定していますから、各職人のスキルが優れていればいるほど、安全で確実でステキな家が建つのは間違いないのですが、私の写真の撮り方の場合、大工が設計図なしに家を建てているようなところがあるよなあ、と思うんですね。

 もちろんどこか旅先に出て、アホほど撮っておけばその中から何かしら編んで組写真にすることも不可能ではないと思うのですが、遡って「どこに行くべきか」からきちんと設計するようにしないと、写真でコミュニケーションするブログというのは成立しにくいんではないか、というのが結論です。

 これは写真家活動をしている人たちからすれば恐らく当たり前のことで、たとえばフォトコンがあればそのフォトコンの傾向に合わせて題材を設定して撮る、みたいなことがあるでしょうし、自ら写真展を企画する、写真集を作る、ということになれば、そこに向けて企画を練り込むでしょうから、何を撮るか、どう撮るかが撮る前から決まって来ると思います。逆にいえば写真家の本質は撮影ではなくその部分にあるんでしょうね。

 ただ撮れちゃった、じゃあまとめよう、というのは、不可能ではないのかもしれませんが結構な高等技術であり、私のようにディレクションに不慣れな人間が手を出すと痛い目に遭うぜ、という類のものであるにも関わらず、真っ先にそれを目指していたわけです。ダメですねえ。

 こういったことは頭では理解できるのですが、私にとってのバカの壁といいますか、言葉では分かっているものの実際に身体を動かしてみるとスコンと忘れてしまいます。だってただ撮るだけで楽しいですから。

 あとは単純に企画立案してまで撮るのがめんどくさいというのと、実際に写真作家をやっている人たちの写真のほとんどにピンと来ないというのもあります。自己顕示欲の鬼たちが内輪サークルで褒め称えあっている様子に「ウーム」となっちゃうんですね。
 私はいわゆる写真家、写真作家に憧れているわけではなく、コミュニケーションを求めているので、べつにコテコテの写真作家作法を踏襲しなければならないとは思いません。本質的なところで写真作家でないのにムーブだけ真似をしても意味がありません。

 また請負カメラマンでいる限り、このあたりについてはほとんど考える必要がなく、ただひたすら目の前に来た撮影仕事を淡々とこなしているだけで良いのですが、純粋なカメラマンってある意味では意思がないので、自分が持っている情報で他者とコミュニケーションしようとすると、コンテンツとしては「写真の撮り方」が限界になってしまいます。

 もちろん写真の撮り方だけで膨大な知識と技術の積み重ねがあり、私もその技術を実戦で使い、また生徒さんに教えることでこの10年以上食わせてもらっているのですが、このブログを始めたのは撮った写真および文章でひろく世間の皆さんとコミュニケーションすることが目的であり、ディレクターとして自分に何を撮らせるか、の比重を大きくしないとそれが成立しないのね、というところまでは少し前に辿り着いておりました。

 あくまで「どうもそういうことらしい」という程度で常に実践できているわけではありませんが、理論上はそういうことで間違いなさそうです。

写真は写真だからそれにどういう意味を持つかは受け手の問題でもあるんだけど。

やらねばならぬレベルの動機

 そのあたりをベースに考えていたところ、最近たどりついたのが、さらにその一歩手前の部分で、自分がどこかへ行く、自分をどこかへ行かせて写真を撮らせるとして、じゃあその場所に行く動機が写真とどう結びつくのか、というのが明らかになっていないといけないんではないかというところ。

 たとえばコロナが明けたらまっさきに台北に行きたいと思っているのですが、台北に行った、撮った、だって撮りたかったんだもん、ではちょっとコミュニケーションとして成立しづらい写真になるだろうな、というところまでは想像がつくようになってきたんですね。ものすごくスローペースですが賢くなってきている気がします。

 では、伴貞良が台北に行く理由は何か? というのを、台北に行く前に突き詰めておく必要があるのだろうな、と思います。言い換えると伴貞良が台北にどうしても行かねばならぬ、撮らねばならぬ、その切実な理由とは一体何か? ということ。それは「金閣を焼かなければならぬ」的な妄執でもなんでも良いと思います。

 カフェ巡り女子みたいな記事を見ていると、体裁がふわっとしているのでゆるい動機で動いておられるのかしら、と思っちゃう部分があるのですが、ああいった記事も上記の論法で行くのであれば「わざわざよその国まで行ってカフェ巡りをし、その情報を詰め込んで渡したい相手がいる、受け手も切実にそれを望んでいるからこそ記事として成立し、SEOで上位に来ている」と仮定してみると、なるほど記事として仕上げるための動機づけ方向性がしっかりしているからまとまるんだなあ、と感心させられます。カメラマン脳だと単純に分業の結果勝手にそうなるものだ、と思ってしまいがちです。

 私も情報を作って人に投げていくのであれば「せねばならぬほどの動機」を見つめてみるところから始めないといけませんし、実際に旅先、取材先を訪れた際も何も考えずに撮り倒すのではなく、何故撮らなければならないのか? 何が撮られるべきものなのか? というのを常に考えながら撮り倒さないといけません。

 現時点では働くおっさん撮影が正にその「やらねばならぬ」レベルの動機で、動機からしてきちんと定まっているなと思いますが、それ以外のスナップ的な写真にももっと芯を通したいものです。

 たとえば奈良に遊びに行って写真を撮るとして、じゃあ奈良の何を撮りたかったの? 何を伝えたかったの? というのが、並べた写真からちゃんと見えるようにしないといけません。

 いやはや難しい。道のりは長いですが、これまで放置してきた写真家サイドを鍛えるためにやるしかありません。そうやって自分の動機と写真、文章を結びつけていくことが、作家としての根本になるんでしょうね。普通は動機が先にあるでしょうから順序がおかしいですが、その点も含め面白がってやるしかありません。


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