ウラジオストク:写真の意味が変わってしまった


 こんにちは。ウクライナへロシアが侵攻してから1ヶ月以上が経ちました。

 シベリア抑留まで遡る必要すらなく、つい最近のチェチェンやシリアでの蛮族ぶりから予想されていたことではありますが、ロシア軍による戦争犯罪が明らかになるにつれ、今後ロシアが国際社会でプレゼンスを発揮するなどということは、少なくとも100年程度はないだろうしあってはならない、という状況になってきました。

 もちろんロシアはロシアで経済封鎖に対して「こちらは何も悪くないのに経済封鎖なんてするもんだから」という立場で西側諸国に対してあれこれ嫌がらせをするわけですが、その中に「ロシアに行って写真を撮る」というのも含まれてしまいました。

渡航しないと写真は撮れない

 コロナ禍に突入して以降、どこで写真を撮るにも、まず現地に行かないとそもそも写真が撮れないよね、というのがギリギリと実感させられておりましたが、(一方的な侵略とはいえ)戦争まで始まってしまうと、ジャーナリストでもない限り入国して写真を撮るなどということはできません。

 外務省の渡航自粛勧告を無視して現地に行き、記録するのだという人もジャーナリストに限らずいますし、それはそれで尊い行いと思うのですが、私は虚弱なので危機に対してサッと対応できる自信がありませんし、戦場を撮ることで飯を食っているわけでもなく、その方向に進みたいわけでもないので日本国内で大人しくしているばかりです。

 しかし、そんな動かない私であっても、過去にウラジオストクで撮った写真を振り返ってみると、取り戻せないものがそこにあるんだなあ、と感慨深いものがありました。

記録

 写真はその時点でそこにあったものが写る、という記録性が非常に強く、ただフラフラとそのへんを歩き回って写真を撮っておくだけでも、時間が過ぎたり情勢が変わったりすることで強い意味を発揮することがあります。

 今日ふと思い出してウラジオストクの写真を振り返ってみたところ、「ああ俺はもうここにはしばらく、下手をすると生きている間ずっと行けないのだな」と思うと同時に、そうやって分断されたことで、その時、その場所に生きていた人たちに対して感傷的な気持ちになりました。

 時間は常に流れてしまうので、いま撮った写真と同じものを撮ることは不可能ですが、それ以外の条件でも到達が不可能になると重みが違いますね。

 よく親しい人に、なんでも良いから写真は撮っておくと良いよ、とアドバイスをします。先日書いた私の過去の話にしても、写真が残っているからこそ鮮明に思い出せる部分がありますし、ウクライナの人たちにしてみれば、ロシアによってある日突然侵略され、暮らしのすべてが、人によっては生命まで奪われて取り返しがつかない状況に追い込まれています。

 そう考えると、ただあちこちに出かけてフラフラと写真を撮っている自分の日常の写真を振り返った時に、撮るべき対象が違ってくるのではないか、今後変わってしまうのではないか、変わるべきなのではないかと思わされました。

 写真を撮っていると、どうしても技術や機材の部分に対してこだわり、写真にもそれが出てしまうのですが、写真にとって、特にスナップみたいなドキュメンタリー性が強いものについては、その時、そこにあったことを捉えることが何より大事で、なおかつそれが「取り返しがつかない」ものである点をもっと大切に扱うべきと感じました。

 これはどこを撮っていても、戦争や紛争など人命に絡むことがあろうがなかろうが実は一番忘れてはならないことなのですが、写真を撮り倒していると真っ先に忘れてしまうことかもしれません。カメラを振り回してシャッターボタンを押す快楽に堕してしまいがちです。

生きる人々

 そんな感慨から、今日の写真は2019年にウラジオストクで撮った写真の中から、現地で生きる人たちの姿が感じられるものをセレクトしておきました。

 こうしてセレクトしたものを見てみると、ガリガリのハードなテクスチャーを撮るのも楽しいのですが、合間でもなんでも良いから人の姿はどんどん撮っておくべきだな、という思いを新たにしましたし、今日の写真はフジのカメラでJPG撮りしたものをそのまま掲載しています。

 フジのカメラがJPG撮りに向いている、というのもありますが、もうこれで良いじゃん、という感じがします。
 やっぱり写真は何が写っているかが大事で、技巧に凝るようじゃいけないな、といいますか、技巧を見せる写真を並べて悦に入ってるようではいかんな、と自戒しました。

 また今日の写真に写っている人たちはほぼすべてロシア人でして、ウクライナに侵攻したロシア軍もロシア人によって構成されていることは紛れのない事実です。行いだけ見ると100%蛮族です。いやいや一般のロシア市民に罪はないのだ、という説も西側で一般的な価値観からは同意したいところなのですが、圧倒的な支持率でプーチンを支えているのもまたロシア市民であることは間違いありません。それを一体どう説明してくれるんだロシアの「一般」市民さんよ、というざわついた気持ちになります。

 しかし同時に、写真を撮る人間としては、写真の被写体に無条件に近い愛情を持つのも確かです。そこに生きとし生ける者としての喜びや悲しみがあり、社会を形成しているのは間違いありませんし、そこへ「どうも」とお邪魔して写真を撮らせてもらっていることに変わりはないわけで、写り込んでいる皆さんに対して感謝の念があります。

 そのあたりアンビバレントだなと思いますが、もともと人間社会で真っ二つに割り切れることのほうが珍しいですから、こうしたもやもやはもやもやのまま抱えておくべきなのだろうな、と思います。

 それではまた。


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