気持ちよさを追求すること


 最近フィールドレコーディングを始めまして、音のことと写真のことをよく対比で考えます。音と写真というか、音と光なのか……録音と写真ですね。技術と表現の兼ね合いの部分にやはり興味が向きます。

 一番顕著に違って面白いのは、わたくし元々はギターを弾いていたところから写真に乗り換えたクチでして、音と違って写真の方は目に見えて分かりやすいなあ、というもの。

 音が良いと感じるかどうかは常に再生環境に大きく依存し、自分が良いと思った音が他人にとっては全然気持ちよくなかったりします。写真についてもそういうことはありますが、その振れ幅がより大きいような気がするんですね。

 写真の場合もデジタルでの出力を目指す場合、キャリブレーションされたモニターに映し出されるのか中華製スマホに表示されるのか、しかも輝度がユーザーによってバラバラ、再生環境が時により違って……みたいなバラつきがありますが、いざとなったら紙に印刷して太陽の下で見てもらえば安定するわけで、「目で見て伝わる」というのは強力な武器であり、同時に弱点でもあります。

 何が弱点かというと、普段の情報入力を視覚に頼る部分が大きいわれわれ人類からすると、一番使い慣れたセンサーを使って知覚するもんですから、写真はあまりに明快すぎて想像力が働きにくいんです。
 特に絵画など他のビジュアルアートと比べても写真ってドンズバにそのものが写ってしまうので、抽象的にしたいなあ、ふわーんと伝えるような伝えないような感じで……と考えると、頑張って情報量を下げるしかありません。デジタル製品の進歩は解像度を上げ、分解能を上げ、情報量が多い方が優れているのだという方向で進歩を続けているにも関わらずです。

気持ちよさの追求

 ただ、私が写真にも録音にも共通して求めるのは、「わあ~気持ちが良いなあ」という感覚でありまして、たとえばよくガリガリの、言い換えるとハードなテクスチャーを良い感じに撮るのが好きなのですが、それの目指すところは見て気持ち良いことであって、写っているもの自体を記録として見せたいわけではありません。

コンクリそのものが好きなわけじゃありません。

 音についてもそれは同じで、この鳥の声が聴かせたいだとか、なんとかいうSLのシュッシュいう音の「この部分が! この部分の音がこの機種特有の音で!」というようなことがやりたいわけではありません。耳に入力して脳のどこかが「わあー気持ち良い」となる音を録りたいと思っています。

 そうやって写真も音も同じようなところを目指しているなあ、と自分で認識することが出来て、次にふと思うのは、そういえばフィールドレコーディングもアート、人文の世界で扱われることがあったなあ、ということ。写真と同じように、録音世界も録音技術とそれの用途でけっこうジャンルが分かれているようなんです。

 写真はカメラとレンズを使う、まではほぼ確定ですが、何を被写体とし、どういう用途で使うかによって、撮り方も機材の選び方もけっこう違います。録音も同じようにマイクとレコーダーを使うのは共通ですが、フィールドレコーディングすなわちスタジオの外に出て音を録るぜ、という手段の先に、あれこれの目的がばらけて存在します。

 現在のところ、「あるらしい」という伝聞の域を越えず、はてインスタレーションとしてフィールドレコーディングしてきた音を加工して表現したりするのかしら、という程度のイメージしかないのですが、まあ現代アートの中でやっていそうなことですよね。

 アート表現の場合、社会に対するクリティカルな批評であるかどうかが現代アートの定義と聞いたことがあり、なるほど確かにそういう方向で評価されるもの、されないものが峻別されているっぽいな現代アート、という感じがするのですが、私は現代アート行為として写真を撮ったり録音をしたりしているわけではなく、ある意味料理なんかに近いものがあるのかもしれません。

 どれだけガタガタぬかしたところで、食って美味い=気持ちが良いかどうかが全てであって、情報でラーメンを食うようなことではいかんじゃろ、と思うんですね。現代アート世界を眺めていると、一つ一つの作品には素晴らしい技術を持って作られていて、但し書きを読むと「なるほど世界をそう捉えているのか。凄い」と思うものが実際に沢山ありますが、そもそもの土台が情報でラーメンを食わせる世界になっているので肌に合いません。「そういうもの」だから仕方がないんですけどね。

限定商法と複製物

 ここ数年、写真のプリントを売り、受け取った人と気持ちよさを共有したいなあ、という考えからアート市場ってどうなっているんだろう、とリサーチしていたのですが、アート世界は下手に歴史が長い上、途中から現代アートになってしまっているもんですから非常にいびつな構造でして、学べば学ぶほど、そもそも私がやりたいことには向いていないんだなあ、というのがよくわかりました。価値観が別の惑星くらい違う印象です。

 またアート作品って現物を売るのが基本で、写真のプリントも要は限定商法なんですよね。「何点しかないので価値がありますよ」という。絵画の世界の端っこで版画のやり方を借りているのが現代のアート写真商売です。
 買う人は市場に出回る現物が少なければ少ないほど価値が上がるので嬉しいですし、何かしらドラマがくっついてくれると価値が上がってくれて余計に嬉しい。ヘンリー・ダーガーのストーリーは社会的に虐げられてきた弱者を死後に金持ちが利用して儲けまくる形にしか見えず、実にえぐい奴らだなと思います。

 逆にいえばアート作品に限らず、すべてのものは価値が「ない」のが当たり前ですから、欲しがる人が多ければ多いほど価値が上がり、たとえアート世界の内部であっても金銭的な価値でしか判断できない人が大多数ですから、それが「良いもの」であるということになります。笛を吹く専門家がいて、その周りに人が集まると価値が上がります。

 投機の対象になってしまうのはまさにその部分ですし、アーティストとして名を上げたい人というのは、自分の作品がいかに希少なものとして扱われているか、というのをプロフィールに書きます。私なんかは職人気質なので、アホくさいなあ、と思うんですよ。そういう美術世界に途中からの参入で座標が持てることはないなあ、と諦めました。

プリントは売るが広義のアートつまりラッセンみたいなもの

 自分の写真をプリントして売ることはこれまでもこれからも可能ですし実際にやりますが、ギャラリーとお付き合いしてギャラリストとクライアントを儲けさせてやれるようなムーブは出来んなあ……という感じ。もっとストレートに個人を幸せにしたいんですよね。ラッセン的なノリで良いんですよ。下手な自称芸術家よりも、よほど人を幸せにしていますよラッセン。

 そのあたりについてつらつら考えていたら、結局私は複製されるのが面白いわけで、その考え方って商業なんです。自分の作品が複製されて色んな人と幸せになる、それがしっくり来ます。

 YouTubeをブラウザ経由でストリーミング再生するのも複製ですし、Vimeoに有料の教材動画を置いておき、欲しい人が課金してダウンロードして視聴するのも複製です。
 雑誌も広告も複製ですし、芸術写真の世界では写真集は複製物の扱いで、だから特殊な事例を除き写真集はアート作品ではない、という扱いです。同じくくりでポスターなんかのデザインも印刷物であってアート作品ではない、という評価があると聞き、なるほど美術の世界ではそういう区分けをするのねえ、俺には関係ないなという気持ちです。

 音についても、私が録った音をネットに上げておき、それをユーザーが何かしらの手段で複製して聴き、気持ち良く眠れたり気持ち良く仕事に集中できたり、辛い夜のお供にしてもらったりしたら嬉しいなと思います。

 一点ものアート作品は誰か一人しか幸せにすることが出来ず、下手をすると作品のことなど微塵も理解せずとも投機目的で買うことすら出来てしまいますが、複製が前提の制作物であれば、興味がない人はそもそも手に取ろうとはしません。書店で売っている本と同じで。そのあたり明快で良いなと思います。
 B to CどころかC to C的なやり取りで誰かが幸せに出来るのはネットがある現代ならではですし、そう考えると妙にやりがいを感じます。

 写真であれ録音であれ、人間が作り人間が受け取るものなので、どうしてもコンテクストが発生してしまいますが、あえてそこを無視して直球を投げていく形でいいな、という自分のいるべき立ち位置が、フィールドレコーディングを始めたおかげで写真のほうでも決まった気がします。


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