作品と付随する情報


 こんばんは。現在リアルで現在17時半くらいなのですが、外は真っ暗。これはもう夜ですわ。夏が恐ろしい勢いで去っていきました。

 今日は土曜日。
 わたくしフリーランスで、カレンダー通りに動く企業と一緒に仕事をしていないので完全に独自スケジュールで動いておりまして、特に土日もへったくれもないのですが、土曜はなんとなく休みっぽい気持ちになります。

 気持ちに余裕がある時は、スタジオに敷いてある絨毯に横たわって休憩したりなんかして、その際にスマホへFacebookが過去の投稿をリマインドしてきたのを見たり、そこからFacebook内でクラフト系の動画が勝手に流れるので、それを見たり。

 今日はその中で「おっ」と思うものがありました。

 どうも埋め込みができないのでご覧になりたい方はリンク先へどうぞ

 どういう動画かというと、金属加工の上手い人が金属の棒(といってもごっついやつです)から8ボールを作るよ、というもので、最初は「金属のスリーブを作っている? 何にしてんの?」と思ったりしたのが、みるみるうちに8ボールになっていく、多少謎解き的な要素もあり気持ちの良い動画です。

 こういうタイムラプスものの動画、Facebookに行くと見ているので、毎回こういう傾向のものが流れてくるようになりました。古い車のリストアものも楽しいです。

ストーリー

 このFacebookの8ボール動画、単に作業を見せてもらって面白い、精度が高くて凄いという面もあるのですが、出来上がった8ボールが「欲しいなあ」という気持ちになりまして、その欲しくなった自分の気持が面白かったんです。

 たとえば東急ハンズに買い物に行った際にあれこれ見て回って、どこかのフロアにこの8ボールが置いてあったとしましょう。べつに要らないんですよ。

 ただ単に製品として置いてあったら? 凄い金属加工がされていて、という説明がくっついていたら? 販売員が横について力説していたとしたら? ……あれこれ想像してみても、全然欲しいと思いません。

 ところが、このFacebookに投稿された作業工程の動画を見ていたら「欲しい……」という気持ちになりました。これはファインアートなんかにも通じるんだろうなと思いました。

制作過程と購買意欲

 以前からやりとりさせてもらっている美術の先生がいらっしゃるんですが、その方が「制作過程が見られると良いよね」とおっしゃっているのを耳にしまして、なるほどと思ったのと繋がりました。

 出来上がった作品は、購買可能性のある人からすれば要は製品であり商品なわけで、目の前に写真のプリントがぽん、と置かれたとしても、「いやだからどうしたの」というところからスタートして写真を好きにならなければなりません。
 写真そのものが内容的に好きかどうか、プリントとしてどうなのか、家に飾るスペースはあるのか、飾りたいのか、飾った時にどういう生活になるのか、買ったとして将来的に価値は上がるのか、などなどあれこれのハードルがあり、すべて乗り越えてようやく購買に至るのですが、こういうのは恋愛と同じで、目の前にいきなり異性が何人か並んでいたからといって、いきなり恋に落ちるわけではない、というのに似ているように思います。

コンテクスト、というか「いわく」

 要は恋愛もコンテクストのものであって、見た目だけで好きになることもあれば、男性から女性への恋愛感情は肉体的な欲望が勝っていたりするのであまり当てにはなりませんが、出会い系やお見合いサイトでいきなり出会っていきなり情熱が燃え上がるような恋愛に発展するのはなかなか難しく、そこに至る前にあれこれ情報がやり取りできる、たとえば学校や職場のような環境の方があれこれ有利なんだろうと思います。

 人となりを知り、その人に付随する情報を知って初めて深いおつきあいに発展する可能性が高くなるんじゃないでしょうか。いきなり出会っていきなり恋愛関係になることって、珍しいどころかごく稀なわけで、だからこそ電撃的な恋愛開始が古今東西でさまざまなドラマの題材になってきたのでしょう。

 それって結局、ゴッホの作品が作品そのものの評価だけでなく、ゴッホの送った悲劇的な人生というコンテクストがくっついたおかげでより価値があるように感じてしまうのと同じで、人間というのはそういう風にして作品を手に入れたいと思うものなのだろうな、とつくづく感じました。
 これはある意味では錯誤ですが、ある意味では情報を積み重ねることで吟味をするものだということもいえそうです。

 もちろん作品そのものの出来に左右される部分は大きく、いかに悲劇的な人生を送ったアーティストだからといって作品がすべて高評価になり高値で取引されるかというとそんなことはありません。ヒトラーの絵はヒトラーの劇的な人生やしでかしたこととは関係なく、駄作揃いと言われています。歴史的な価値はあるんでしょうけどね。

 ラーメン発見伝という漫画の有名な一コマ、「あいつらラーメンを食べているんじゃない。情報を食っているんだ」というのはなにも日本のラーメンマニアだけの話ではなく、洋の東西を問わず起きていることのようです。

 何はともあれ、今回の8ボールの件で、話に聞いていた作品そのものとそれに付随する情報の件を自ら体験することになってしまいました。

じゃあ

 私の場合、アート作品を撮るためにどこかへ行ったり撮影をしつらえて撮って売って食う、というのを、とりあえず撮って作品を完成させるところまでやってみっか、とチャレンジしてみたこともあるのですが、結局肌に合わないんですね。

 今後も作品らしい作品を撮ることはあるでしょうが、あくまで目的は狭い範囲での自己表現であって、ファインアートとして売るためということにはならないだろうな、という感じ。そのあたりはまた別の記事にしようと思いますが、ファインアート作品として売る写真のために撮るという行為から離れよう、というのが働く人たち撮りの動機になっている部分があります。

 働く人たち撮りをメインにする上で動機がもう一つあり、それが「ブログやPatreonで制作風景が流せたら、見ている人が喜んでくれるんじゃないかなあ、結果として出来上がった写真を飾りたくなる可能性が高くなるんじゃないかなあ」というもの。

 写真は最終的に見ている人の手元に、「あるぞ!」と存在を主張する何かしらの形で届けるのがベストと思うもんですから、そこに至るまでの導入として、私がなぜその写真を撮るに至ったか、実際どうやって撮ったかが見てもらえたら良いなあ、という風に思います。
 それはプリントの販売/購買だけではなく、単純にスマホの画面に出てくるJPGデータだったとしても、感じられる厚みが違ってくると思うんですね。

 そうやって文章や映像と写真がリンクしていくと良いんではないか、それこそ角川メディアミックス状態ではないのか、というふうに昭和を感じるフレーズで締めようと思います。

 それではまた。


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