レンズの写りに溺れない


 写真を撮る人間というのはレンズに溺れることがあります。

 絵としての写真よりもレンズの描写を見せたくなっちゃう病のことで、写真を撮る時にレンズの描写に合った被写体、光を探して撮ってしまうんです。写真をやらない人からすると想像もつかないと思うのですが、料理で例えるなら「凄い包丁を買ったから、その包丁に合う食材で料理がしたい」というような倒錯。もちろん私もほとんど毎日溺れています。楽しいですよ。

 恐らくレンズ道楽というのはそこが本質で、特定のレンズを楽しむにはそのレンズが本領を発揮する条件を探し当てなければなりません。というかそうやって探す行為を指してレンズ道楽と呼ぶのでしょうね。

 もちろんレンズ道楽とひとくちに言ってもコレクター寄りの人も結構いらっしゃるのですが、少なくとも私のレンズ道楽は「今ここにあるレンズ」が対象で、写り味本意なものですから、このレンズには一体どういう条件が一番ピッタリ来るんだろう、というのが興味をそそられるところであり、その条件を探すためにそのへんをウロウロして色んな条件で撮りまくるわけです。

 レンズにより金属が良い感じに写るもの、人肌が素晴らしいもの、冬の晴天のように硬い光が向いたものがあれば、明るい日陰のようにふわっと柔らかい光が合うものもあります。いえ本当にあるんですって。赤が良いレンズ黄色が素敵なレンズ、というのもあります。

 レンズの光はカメラのボデーの方で受け取るので、フィルムカメラだったらフィルムの個性が、デジタルであればセンサーや処理エンジンの特性が大きく影響するのは確かで、そことの相性問題ももちろん発生するのですが、こういうのはどうせ一度沼にはまるとレンズもボデーもどんどん増えるのでクロスチェックが容易に出来るわけでして、延々とレンズもボデーもとっかえひっかえやっていると、そのうち「ははあ、君はこういうのが得意なんだな」と分かり合える日が来るんですね。気の所為だったりもしますが、道楽なんだからそこは良いんです。

実直なレンズ

 ニコンにAF-S Nikkor 50mm f/1.8Gというレンズがありまして、このレンズが非常に優秀ながら、ぜんぜんレンズの写りに溺れさせてくれないのが面白いなと最近よく思います。

 ニコンというメーカーはいわゆる廉価版をちょっと高めに設定しているといいますか、DX(APS-C)センサー用のレンズは思い切り割り切ったものも存在しますが、一部のそういった例外を除いて、微妙に見かけの値段が高くなってしまってでも手抜きせずに実直に作ります。

 AF-S Nikkor 50mm f/1.8Gというレンズは新品で買うと25000円を切るくらいの、キヤノンの1万円レンズと比べれば入門用、初心者用というには微妙にお高い価格設定なのですが、内容的にはそれ以上のものがありまして、およそ普通に写真を撮る限り、描写が足りなくて困るということがまずありません。

 しかし高級ラインナップのレンズと比べると写りにスペシャル感はありません。レンズのスペシャル感というのは、シャープさが高いとか周辺までびっちり写るだとか、そういう明快な部分だけではなく、「あれ? なんだか被写体がやたらと良く見える」という印象の向上をもたらすもので、この「なんでか分からんが良い感じになる」部分が、一体どういう条件でもたらされるのかを探るのがレンズ道楽なんじゃないかと私は考えています。

 AF-S Nikkor 50mm f/1.8Gについては価格設定が先に来るでしょうから設計もガラスもコーティングも高コストなものは使えないんでしょうね。そのかわりに、頭を使って出来る性能は出せる限り出しておきました、という差分のようなレンズでして、私はこのレンズを先行してニコンを使われているお友達から譲っていただきまして、ニコンというメーカーを(少なくともGレンズ世代で)理解する上でのベンチマークとして非常に気に入っています。

溺れさせてくれないレンズ

 実直でよく写るのだけどスペシャルな写りをしないこのレンズ、使っていると、普段の自分がレンズの写りに溺れているんだなあ、むしろ甘えているんだなあ、と気付かされます。

 特にNikon Zのボデーと一緒に使っていると、ボデー側は思い切り現実をそのまま描写します、味付けはしませんというスタイルで、そこへ実直100パーセントでラグジュアリーさを求めないレンズを付けて撮るので、なんとなく「それっぽい」感じの写真が勝手に撮れてくれることはありません。ただただ現実がそのまま切り抜かれるだけ。

 性能が高い機材というのは、その性能という言葉が指す範囲に「カメラやレンズが勝手に良い感じにトランスフォームしてくれちゃう」という部分も含まれていると思うんですね。もちろんそれは何も悪いことではなく、特に仕事なんかでは「手間暇かけなくても勝手に良い感じになってくれる」というのは非常に助かりますが、趣味やそれに近いところで、かつレンズ道楽のように写りそのものを楽しむ場から離れてそういう機材を使ってしまうと、どうしても「レンズの写りを見せる」のが写真撮影の動機の中心に来てしまってよろしくありません。

 私の場合、写りの面でのレンズ道楽はたしかに好きですし、YouTubeなんかでレンズの話をする際にはそういうレンズ固有の写りと、それを引き出す条件を話題にしたりするのですが、このジャーナルブログにおいてはレンズの写りを見せている場合ではありません。

 取材撮影で重要なのは、レンズに入る前に何をどう写すかの部分なんだろうと思います。

レンズ前

 どういう被写体を撮るか、どういう背景で撮るか、どういう光が当たっているか、みたいな部分は、シャッター前どころかレンズに光が入射する前に決まってしまっている問題です。

 日常のスナップから離れて、かつ写真をやらない人がメインのターゲットの場で写真を見せるのであれば、レンズ前に全力を尽くすべきで、レンズ以後については「最善のものを使いましょう」でOKなんじゃないのかな、という気がしてきました。

 仕事でイベントなんかのドキュメンタリー要素が強い写真を撮っていると、カメラを構えてどうこう以前の、良い絵が撮れる位置にどうやって入り込むかの方がよほど大事というのは身に染みて感じているところ。
 例えば同じポジションを取るにしても、人によっては誰にも咎められずにスルスルッと最前列まで行けるのに、人によっては「あいつ邪魔だよ」ってクレームを入れられたり、みたいな問題もあり、そういうのは完全にレンズ前の問題です。

 逆にいえば、レンズ前がきちんと出来ている状態であれば、さらにダメ押してレンズやボデーのスペシャル画質を使わせてもらうのも吉ですね。財テクとしての舶来もん高級機材というのも視野に入ってくるかもしれません。

何を写すか

 そんなこんなで、AF-S Nikkor 50mm f/1.8Gを使っていると、レンズ前の条件をどう整えるか、写真として強い被写体や状態をどう導き出すのかについて強制的に考えるはめになるので、これはこれで素晴らしいレンズだなあ、という風に思うのでありました。

 実際、よく写らないレンズだとしたらこういったことは考えないと思うんですね。ニコンは良いレンズを作っています。

 それではまた。


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