アマチュアスポーツとしてのスナップ写真


 最近ふと思ったのですが、私が楽しんでいるスナップ写真撮りって、アマチュアスポーツみたいなノリなんですよね。

 写真講師をやっていて、スナップ写真の効能についてよくお話しています。

 スナップとはすなわち、そのへんにあるものを題材に「写真にする」遊びというお話を以前しました。

 そのへんに落ちているもの、起きたことをただ記録するのではなく、与えられた四角を上手く使い、他人が鑑賞するに耐える出来事として、しかも願わくば単純に何が写り込んでいるかを超えて、普遍的な感覚が見た人の心の中に湧き上がるような……というのを目指して日夜スナップしているわけですが、私の講師としての考え方は、芸術だなんだ言ったところで、まずはカチッと形に出来ないと伝わるものも伝わらないんだから、大量に撮りましょう、なんです。

 実用面からいってもスナップ写真は「そのへんのもの」を被写体にするので、やれモデルさんをお願いしなきゃならないだとか、チョモランマに登らなきゃならないだとか、そういった大きなコストがかかってきません。

 しかも写真ってスケール問題なので、純粋に撮ること、構図を作ることだけでいえば、巨大なものを撮ろうが小さなものを撮ろうが、写真という与えられた四角に押し込めるのが芸事の本質ですから、同じテクニックが使えます。ということは身近なものを撮りまくれるスナップ写真が写真を撮る根本的な力の向上に寄与しないわけがない、という論理。

 ただまあ、普通は目的もなしに写真を撮ることって出来ないわけで、写真講師以前に「お前ら楽しいからどんどん撮れ」と人を写真の泥沼に誘い込む伝道師の役割を果たすためにどう考えているかというと、まずは「写っちゃう! そのまま写っちゃう楽しい!」という感動を味わってもらうのが大事と思っています。優れた道具を使うと肉眼を超える時もありますから、その力も大いに使いましょう。

 大事なのは撮って楽しいこと。

結果を求めだす

 ところが人間、カメラに親しんでくると欲が出てくるもので、この写真を他人に褒めてもらいたいなあ、と思うようになるんですね。撮った写真を褒めてもらうことで、遡って撮った自分を褒めてもらい、一定の感性を持った人間と認めてもらいたいと願うようになります。

 自己顕示欲が強い人がいたり、好きな写真を撮って食っていけたら最高、と考える人も出てきますし、どちらも自然なことですから、じゃあどうしたら? と考えてあれこれやってみたり、一部は情報商材屋の餌食になったりします。欲が先に来る人というのは、情報商材屋の養分になってしまいやすいですね。

 では私のところではどうやっているかというと、ただただ写真技術だけを扱っています。最終的に写真技術が身につくかどうかは当人の問題ですから、対外的な評価は欲しい人が勝手に取りに行けばよろしい。商売に使いたい人は勝手に使って稼げば良いじゃん、という感じで、実際にプロになっちゃう人もいます。

 写真コミュニティはところにより、内部で評価の基準を作り、徒弟制というか家元制のようにするところもありますが、その評価はあくまで内部向けのものであり、よそで通じなかったりしますから、あまり意味があるとは思えません。幼稚園で何が出来たからシールをあげる、という程度の効果はあるのでしょうし、それによりやる気を掻き立てられる人も一定数いるのでしょうが、まず自分と戦えない人が写真を撮ってもしょうがなくないか? というスタンスなので、私の主宰している写真コミュニティ内では賞罰は特にありません。

 コンテスト、コンペティションという形にしてしまうと、どうしても被写体のインパクトに頼らざるを得ないことが多く、優れた被写体をつかまえるのも写真の能力の1つではあるのですが、私自身そこにあまり興味がないんですね。

 フォトコンは審査員が専門的でなければないほど、被写体のインパクトが評価を大きく左右してしまうので、そこに左右されない場があっても良いじゃない、写真の楽しみは被写体の派手さを抜きにしてもあるでしょう、そこで技術を磨くことは出来るでしょう、という考え方なのです。

アマチュアスポーツ

 これはある種、アマチュアスポーツみたいなもんだなと思います。

 プロの場合、お客さんがいて課金してくれるのが前提というか、お客さんがいないとプロはどれだけ自称したところでプロと認めてもらえないわけで、お客さんのために何が出来るか? どうすれば喜んでもらえるか? というのが何より大事になってきます。プロだからお客さんを喜ばせられるのではなく、喜ばせられるからプロ、という順序。

 これはアーティストであっても同じことで、社会に対してメッセージがどうこう、歴史に名を残すどうこうも長期的には大事なのでしょうが、まずは現世のクライアントを喜ばせないと話が始まらないですし、一定以上の人数に評価してもらわないと歴史に名前が残りようがありませんから、他者からの評価を求めざるを得ません。

 写真を撮る上では見る人の存在を意識して撮ることは非常に重要です。誰も見ないのであれば構図に気を遣う必要などなく、ただあったものを写せばそれで用が済んでしまう面はありますが、撮った本人ですら、撮った時のことを忘れてしまえば他人が撮った写真のように眺めることしかできませんから、結果としてその「他人」に向かって撮るしかありません。

 写真を撮ることで社会的な評価を得るかどうか、その先にメシが食えるようになるかどうかで分けるとどうなるかというと、サッカーで例えるなら、よりサッカーの原理について知り、サッカーをプレーすることで自分の体の構造について理解を深めたいと思い、かつどうせ試合をするなら勝ちたいと思いつつ、でもまあプロになりたいかと言われれば本業が充実しているから別にプロになろうってわけじゃないよ、みたいな形ではないかと思います。

 私と写真の付き合いの場合、写真を撮り続けることでより写真が分かる人間になりたいなあ、というのが先に来ており、それでお金が稼げるかどうかは別なんですね。つまり撮る行為や楽しみとそれで得る評価、お金が分離しているのは良い意味でアマチュアリズムだな、と思うのです。

 もちろん、それで食っている人間だからこそ分かることがあるのは確かで、私の場合は職業カメラマンを10年以上やっていきたおかげで、見る人を想定した撮り方というのが良くも悪くも身についてしまっている部分はあります。明快であることを良しとするのが職業カメラマンの世界なので、写真に秘密を持たせて思わせぶりな表現に持ち込むよりも、スパッと見せちゃおうぜ! とやりがちなんですね。おかげで見やすい写真になっているのは間違いありません。

 しかし食えるかどうかはあまり気にせず非常にいきあたりばったりにやっているもんですから、生徒さんも同じような方が集まってくれておりまして、これは実に幸せなことですし、写真の楽しさを伝える上でも、「評価されるから楽しい」「お金になるから楽しい」という順序が逆転した人があまり来ないので端的に楽をさせてもらっています。

 ありがたいことにPatreonで毎月課金して私の撮った写真を見てくれる会員さんも毎月じわじわ増えておりまして、だからといって私も毎日「Patreonの会員の皆さんに楽しんでもらうためにこれを撮る!」とやっているわけではありません。

 あまりに通勤スナップばかりになっている時は「ちょっとでもええから遠征しようか」と新鮮なものを取り込む努力をしたりしますが、そうして行った先でも楽しくスナップしちゃってますからね。むしろPatreonは「伴が楽しく写真研究をしている成果が毎週少しずつ見られる」サービスという扱いだなと思っています。

毎日カメラおじさんやってます

秘密が知りたい

 写真に限らず、何か技術を身に着けたいと思う時、「知りたい」が先に来る人は、自分の中に動機が持てる人ですから、スピードの遅速こそあれ、着々と自分のペースで修練して理解を深める事ができる人なんじゃないでしょうか。

 私も集団を率いる立場として、生徒さんそれぞれのペースで好き勝手にやるのが一番良いと思っていますし、それこそスナップ写真は個人プレーの極致みたいなもんですからね。公序良俗に反しない限り、何より撮る自分が楽しいのが一番と思います。

 アマチュアリズムを大いに楽しんでいきましょう。誰も喜ばせられない自称プロよりも、楽しむ姿を周囲に見せて社会がちょっとだけ明るくなる分、有益な存在と思います。

 それではまた。


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