専門家


 こんにちは。

 東京では2021年7月末から新規感染者数が日割りで3000人を突破しておりますが、人によってなのかコミュニティによってなのか受け止め方が全然違うのが、主にTwitterの様子を見ていると感じられます。

 Twitterという場は色んな意味で偏った人が集まり易いので丸っと信じ込んでしまうのは危険ですが、そのへんの人と世間話をするよりも人の本音が見られるという利点があり、ダイレクトな本音を抽出するには良い場だ、と理解しています。

 そんな中、政府と分科会のやり取りに対するTwitterの人たちの反応を見ていると、どうも日本では専門家というのが理解されていないんじゃないかしら、と感じる機会が多く、今日はそのあたりについて書こうと思います。

専門家

 日本政府は新型コロナウイルス感染症の対策をする上で新型コロナウイルス感染症対策分科会から情報や意見の吸い上げをしており、その会長が西太平洋地域でのポリオ撲滅という人類史に残る偉業を成し遂げた尾身茂先生です。

 分科会からの提言は常に人が新型コロナ感染症に罹患するリスクを低減するためのものであり、当然それは人やモノの流れを止めろということですから経済に良いわけがありません。そこに噛み付くツイートをよく目にするんですね。

 結論からいえば、専門家は専門家なんだから専門外の都合なんて一切無視で私は良いと思っています。利害の調整をするのは政治の仕事です。

 日本が100人の村であれば、治水も土木も建築も医療も……という風に生命活動のコアに近い部分の仕事が一人もしくは複数人に集約され、兼務されることもままあるのでしょうが、我々の暮らしている現実の日本は巨大な人口を抱えた国家ですから、上手く分業していくのが合理的です。合理的というのはこの場合、多数が幸福になれる可能性が高いということ。

 現代日本のように集合が巨大になり、かつ分業が進んでいる社会では、バリバリの専門家と政治家の間を取り持つ、たとえば医系技官のように「医師免許を持ちつつ役人をやっています」という人まで存在しますから、それこそ専門家は専門の領域からの意見のみで良いと思うんですね。原理主義的であることこそが大事。

 ところがTwitterで流れてくる意見を見ていると、分科会の尾身先生に政治的な判断をしろ、というようなものが珍しくありません。このあたりは、あまりにそもそも論すぎて誰も論じない可能性があるのかもしれません。

 分科会から出る「慎重に」という提言に対し、たとえば飲食店の方が「じゃあ店を開けずに死ねっていうのか!」と文句をつけたくなる気持ちも分らんではないのですが、尾身先生は感染症の専門家であり、同時にお医者さんですから、「一人も死なせたくない」のが前提です。ある意味、原理主義的であって全く問題ないと思うんですね。
 たとえば一人も死なせないために経済を全部ストップ! とおっしゃったとしても、感染症の専門家としてはおかしくないと思います。専門というのはそういうことと私は理解しています。

 飲食店の方が文句をつけるべきなのは、そうした専門家からの意見を集約して実際にどういう施策に結びつけるかを判断する政治家のほうです。政治家はそうした不満を聞いて、それをさまざまな利害の一つとして認識し、時に利用するのも仕事です。

 利害を調整することが政治家としての利害にモロに関わってくるという変わった仕事なので理解しにくいのは確かですが、この政治および政治家をどれだけ理解するかが社会の円滑な運用に大きく関わっている気がします。そのあたり、本質的に政治家がどういう仕事なのか、というのをいつかプロの政治家に聞いてみたいと思っています。

ディベートと専門家

 飽くまで私見なのですが、ディベートと専門性って結構切り離せないものなんじゃないかと思います。

 テーブルの両サイドに就き、当人が実際にどう考えているかはどうあれ、例えば死刑に賛成、反対というように役割を割り振って議論をし、一定時間が過ぎたら今度は立場を逆にしてまた議論をしてみる、というようなディベートの訓練をしてみると、自分の立場だけが100%正しいというのは有り得ないのが分かると同時に、しかし議論の場では自分の置かれた立場からしか発信できない意見・情報を出す必要がある、というのが分かる筈です。

 専門家というのは社会にそうした「それしかやっていない人にのみ分かる情報」を求められるから専門家と呼ばれるわけで、社会とバランスを取る政治を期待してはいけないのです。

 じゃあどうやって実際に社会を動かすのかといえば、たとえば感染症の専門家が、政治家に「その再生産数っていうのをもっと低く見積もることはできないか。じゃないと経済活動が止まっちゃう」と言われて数字を低く設定し直すようなことがあってはならず、かといって経済を止めるとそっちはそっちで人が死ぬのは間違いありませんから、そこは経済の専門家から情報を得て、最終的に政治家が判断する、というシステムになっています。

 ですから尾身先生を目の敵にするのは大間違いです。責めるなら政治家を責め、気に入らないなら次の選挙で痛い目に遭わせるべく、選挙権でも被選挙権でもどちらでも良いから行使するべきなのです。
 もちろん自民党が気に入らないから、と次席の立憲民主党に投票したからといって世の中が本当に良くなるかどうかは慎重に考えなければなりませんが、それを考えるのも我々の義務です。

 民主主義って巨大な実験装置でもありますからね。権利者も受益者も有権者一人ひとりですから、実験して失敗する権利もあります。一定以上の世代は民主党に政権を任せるという実験をやって酷い目に遭いましたが、そのダイナミックさが民主主義の面白いところ(と思うようにしないとやってられません)。

 政治不信だなんだと言われていますが、そもそも政治という仕事が理解されていないんじゃないかな、という風に感じます。

人間が集まると巨大なエネルギーが生じるのは土木、建築も政治も一緒。

政治はどこにでも働く

 もちろん、専門家の間にも政治が働くのは間違いなく、専門家として名を上げ、世の中にインパクトをもたらしたいと考えるのであれば出世するしかありません。

 つまり人間は社会活動する以上、どうしても政治的な振る舞いを避けることはできないのですが、こればっかりは人間が複数絡む以上仕方のないことですから、諦めるしかありません。また人間の豊かさは、政治的な振る舞いと切り離された人間関係をどれだけ持てるかで決まる面もありますから、政治的であれば偉いというものでもありません。

 また年を重ねるごとに思うのは、先に述べたディベートの話じゃないですが、政治というととかく左右の話になりがちで、そうするとどちらか一方に軸足を置くどころか人生すべて投げ入れるような極右、極左の人というのが結構見受けられるのですが、一度反対側の立場に身を置いたつもりであれこれ考えてみると、「ははあ、バカにしか見えなかったがちゃんと理があるんだな」というのが分かってきます。

 まるでメソード演技かコロンボの捜査理論か、という感じですが、実際に当事者になったつもりで考えてみると、のっぴきならない事情があって、その場では右に見える、左に見える意見を発しているということがよくあります。

 私からすると、本来保守だリベラルだというのは結果としてある程度の傾向が出ちゃうよね、というものであって、自民党を支持すると決めたから自民党!!! というふうに党派ありきでものを考える姿勢は、そもそもの情報の捉え方からして歪むに決まっていますから、よろしくないと思います。

 もちろん村社会でやっていた頃は、情報のスピードが遅い(=少ない)ですから、一人の代議士に判断を全て任せる、という形にせざるを得ませんでしたし、よその地域もよその国もそれで回していたのであんがい上手く行っていたようですが、情報のスピードが早い現代にそれは通用しないんではないかと思います。

 「政治」というと、選挙の時だけペコペコ頭を下げてドブ板選挙をやり、住宅地にまで入り込んで街宣カーで騒音を撒き散らす政治屋としての政治家の側面ばかり目に入りますが、少なくとも日本は制度上、民主主義になってしまっていますから、我々一人一人が少しずつ任を負うしかなく、また逆にいえば世の中を良くする、不幸な人が減り皆で幸福度を上げるチャレンジをしていると思うと少しは楽しめるんではないかと思います。

 それではまた。


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