エゴとのバランス


 わたくし写真講師をやっておりまして、ぼちぼち生徒さんの中から写真で稼ぐ人が増えてきています。

 もともと「上手い奴は勝手にプロになっちゃう」理論でやっているもんですから、勝手に上手くなって勝手にプロになりゃ良いじゃん、プロにならせるっていう名目でお金を余分に取ることは現状やっていないし、俺もプロ向けコースみたいのをどこかで履修したからプロになわけでもなく、プロというのは状況のことであって……という感じでいます。

 ですからオンラインサロンを運営しておるのですが、そこでは「プロになるため!」とか「よそのカメラマンをしばくため!」「ナオンにモテるため!」みたいなことは全然話題の中心ではなく、ただただ自分と戦う道場として運営しているんであります。

 そもそも自分と戦える人って強いんですよね。

 コンテストみたいな場では他人と戦うことの無意味さに「知らんがな」とどっちらけになってしまうのでたいへん弱かったりするのですが、長期的な視野で、また人間性という面でとらえると、他者からの評価よりも自分にとってどうなのか、という軸で芸事を見られる人は強いんです。何が強いって、そりゃ他者からの評価に一喜一憂せず、着実に自分のペースで進むことができるからですね。

 私自身、コンペティションみたいなところはそもそも審査員を信用しないので全くダメでありまして、しかし社会で写真の技能でお金を得てきたというのは、もちろん幸運も味方してくれているのでしょうが「俺はここに価値があると思うんだよね」というのを写真に反映し、それに対して金銭で報いよう、という人が一定数いたからでありまして、その根幹は誰よりどうとかいう問題ではなく、まず自分の中できちんと一定のものを育まないと気持ちが悪い、という姿勢であります。

エゴ

 最近、このジャーナルブログをある種コマーシャル寄りにしてみるかなあ、どうだろうなあと検討しつつ実験を楽しんでいます。
 そのきっかけになったのはPatreonでありまして、Patreonでは「俺が撮る写真を月額で見たいっていう人、いる……?」「いるんだ! じゃあその人たちにどういうアプローチで見せると喜んでくれるんだろう」というのが、たいへん小さなサークルおよびサイクルではありますがくるくる回っておりまして、じゃあより表に近いところであるブログという場でやってみたらどうかしら、という風に考えが拡大してきています。

 これは以前の仕事の様式であれば、どこかの媒体の依頼を受けて撮りに行きまっせ、撮ってきたものはデザイナーさん編集さん好きにやってちょー、と丸投げする形だったのですが、ひとりナショジオ的に全部自分でやることになり、だからこそ面白がってもらえるところがあれば良いやなあ、という風に考えています。

 そこで問題になってくるのはエゴの部分です。エゴ。アメリカ人の発音だとイーゴゥ。

 写真って撮る人と見る人のコミュニケーションであり言語なのですが、たとえば「単焦点を使うと写真が上手くなるぞ」という言説といいますかアドバイスといいますか、そういう話がありまして、それ自体は事実なんですね。

 しかし単焦点レンズすなわちズームが利かないレンズを使って写真を撮るのは、訓練のためではなく、よくボケるであるとか、画角が固定されるのである意味よけいな事を考えなくて済む側面もあり、楽になれちゃったりもします。

 さらに病が進むと、「このレンズが使いたい」という動機でそのへんをウロウロして写真を撮るようになったりするのですが、それって写真を見る側からするとかなりどうでも良いんですね。つまりエゴでしかないんです。

 ボケのない、標準ズームの50mmで撮った写真と、単焦点レンズの50mmで撮った写真。ボケ具合が違えばなんとなく印象は違うでしょうが、それは基本的に写真をやっている人間の観点であって、写真を見るだけの人はボケという単語すら知らなかったりします。ほら、なんていうの、あのふぁーんとした、みたいな感じ。

 そこを「このボケがないと!!!」みたいなことを言い出すのはエゴでしかなく、しかしエゴがない芸事ってシャビシャビでつまんないんですよ。

 つまり、エゴだけで撮るとアクが強すぎて見ていられないですが、エゴがなさすぎても「君は個人として主張することがないんか?」という感じになってしまい、見ていても面白くありません。

バランスの問題

 結局写真を撮る上では、すべてがバランスなんだよな~という風に思います。

 写真でいう露出は明るいか暗いかを「どれだけ」と定量的に決めなければならず、そこからしてもうバランス。見やすい、見にくいのレベルではなく、明るさによって伝わるものが変わってしまう、むしろ伝える内容をコントロールするために明るさを操作するわけで、その一番根本的なところからいきなりバランスなんですよね。

 ですから、ジャーナルブログについては自分のエゴと見たい人に寄り添うのと、どれくらいのバランスでやればええのかしら、というのも現在探っているところです。

 ある意味、東京カメラ部的な写真っていうのは、限りなくサービス業に近いんじゃないかなと思うんですよ。

 あれはJJエイブラムスのように、「皆さんこれが見たいんでしょ」という大衆に望まれる(と彼らが考える)姿を提示しているのであって、それ自体テクニック的には凄いし風景なんかの場合「そこまでやるの!」と彼らの根性に驚嘆させられる部分もあるのですが、もしそれを商業用の部材ではなくアートとして見るのであれば、エゴの部分がもうちょっと見えないとつまらないんですよね。JJエイブラムスも上手いんだけど作家性がなくて、見ていてつまらないんです。

 面白いもので、人間としてはエゴむき出しなのに、写真は全力でサービス業的な風景写真を撮る人がいたり、その逆の人もいたりするので、バランスをどうとるかの問題というよりも、そのエゴとサービス業のバランスも個性の一部で改変不能なのかもしれないと思ったり、また同時にプロフェッショナルな写真家をやるのであれば、そのあたりのエゴのコントロールが肝心、むしろ仕事のコアになるのかもしれないと思ったりします。

 あなかしこ、あなかしこ……

これが俺の写真! みたいのは苦手なんだけど、もうちょっとやらないといけないんだろうなあ……という。

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