ショートトリップとガリガリのコンセプト


 こんにちは。今日はこれからショートトリップに出ようと思っています。今回は車でゴー。

 最近、写真家方向に仕事をシフトしていこう → ジャーナルブログに旅要素を増やそう → ジャーナルブログにまで来て写真を見れくれるのであれば、一体どういう写真を見たがる人が多いのか? というようなことを考えておりました。

 こういうのって、「東京カメラ部みたいな絶景系が良いに違いない!」って思ったとしても、実際にそういう写真が撮れるかというと全然別だったりしますし、そもそも「撮れるか」の中には「撮る気になるか」も含まれているわけでありまして、結局は狭い範囲で自分が出来ることをやるしかありません。人間というのはそういうものなんだろうなあ、と思います。

 人によってはカメレオンのようにガラッと撮るもの、撮り方、撮る感性からすべて変えられる人もいるのかもしれませんが、それって軸ごと替えているということなので、凄いなと思うと同時に、もともとその人の軸を練り上げるほど撮り倒していないのかもね、と意地悪に思ったりします。

 用さえ満たしてくれれば良いという撮り方をするのも仕事としてはありなのでしょうが、それは残念ながら短期的な消費物にしかなりえず、その人が生産者を志すのか作家を志すのかの分かれ目がそのあたりにあるような気がします。

ガリガリのコンセプト

 私の場合、人物を撮ろうが風景を撮ろうが基本的にはガリガリが軸にあります。

 ガリガリという言葉にしてしまうとアレなのかもしれないですが、一言でガリガリのコンセプトを表すなら「表面に現れる構造の理解と、その二次元化」なんですね。最近ようやく言語化できるようになってきた感じ。

 人間を撮るとしましょう。服を着ていればほとんど服しか写らず、裸になっても皮膚しか写りません。写真に写るのは常に表面でしかありません。しかし同時に、表面に見えているもののほとんどは、その背後に構造を背負って三次元の空間に存在しているわけで、写真に撮る上ではその三次元を丸ごと二次元化しているんだよな、と思って撮影をしています。

 言い方を変えてもっと情緒的な表現をするのであれば、たとえば街角の古びたタバコ屋さんを「おっレトロだねえ」と撮った時、その小さなタバコ屋さんがその小さな町を、市を県を、ひいては国や地球という星の特性を帯びているわけで、私はパッと見ると小さな起伏に見える平面上のテクスチャーを撮ることで、そうした「包含された属性」を撮っているんだなあ、という風に思うのです。

 それを時代の側面から見るのではなく、構造の側面から眺め、現時点で水平にスパッと切り出すのが面白いんですね。廃村だの古い町並みだのを楽しく撮っていても懐古趣味にならないのは「現時点でその状態にある」ことを重視しているからなんだと最近気づきました。

 また私がカメラを持ってウクライナに行き、畑の土のでこぼこを撮ったとしたら、それは紛れもなくウクライナのでこぼこであって、より大きな「地球」という属性で見れば日本の、東京の、西東京市の葱畑の土のでこぼこと同じものということになりますが、地べたで国境に囲まれて暮らしている普通の市民からすればそれは大きな違いであるわけで、そうした「同じ」「違い」の境界をゆらゆらさせて遊ぶようなところが、特に距離の離れた場所でガリガリを撮る楽しみであります。

軸と作家性

 私としては、狂ったようにガリガリを撮り続けたおかげで、小さなテクスチャーでしかないガリガリにこういった視点を持つに至ってしまたわけで、それが今後も、何を撮ろうと軸になってしまうことには変わりがないだろうなと思います。

 ジャーナルブログは「わあ、すてき」とパッと見て楽しんでもらえるような写真を(といってもおそらく地味な形だと思いますが)増やしていきたいな、そういう方向で運営したいな、という願望を少なくとも持っているのですが、なんだかんだ軸にはガリガリ魂があるので、そのあたりどう隠れるか現れるかを楽しみに見ていただくと面白いんではないかと思います。

 またそうした軸のことを、人をして「作家性」と呼ぶのかなあ、というふうにも考えます。どうなんでしょうね。

 美術世界のアウト側もアウト側から「アートってなんだろう」と子供のように、あえて極端にものわかり悪くアプローチしている立場からすると、偉人が長年にわたって築いた作品群を不遜にもサッと眺めて「あーこの作家の人となりがわかる気がしちゃう」と思うことはあっても、自分自身が「作家性を構築する」みたいなことは不可能なんじゃないかと思います。

 その時々の作家を取り巻く環境の中で「こうなんじゃねえの」と半信半疑でコンセプトをこねくり回し、作品をひねり出し続けた結果として作家性というものに見えちゃうだけで、それを作ろうなんていうのは、作りましたと標榜したところではりぼてでしかないように思います。

 現代アート世界では、とくに登竜門あたりにいる人達については、そういった倒錯したことを作家として求められているように見受けられ、なかなか大変なんですね、という気持ちでいます。
 私はわたしの持ち場がここにあるので、写真を通じて人と交流しながらより考えを深め、技術を高めていければ良いなと思っています。

 それでは。


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