「光を捉える」というフレーズと大塚の写真


 また大塚に行っていたんです! という写真をお送りしつつ、写真界隈でよく耳にするものの、写真界隈から一歩出たら「なにスカシてんのよ」と言われそうなフレーズである「光を捉える」という言葉について。

 写真の勉強というのは、まず間違いなくカメラの勉強から始めるものでして、何はともあれカメラがどういう動作原理で動いているのか分からないと写真は撮れませんから、絞りだシャッタースピードだ、という言葉と、それがカメラの中でどう動作して、どういう風に写真に影響を及ぼすのか、というのを知ることから始めます。

 この領域を私は写真を教える上で初心者領域と呼んでおりまして、初心者=カメラを扱えるようになったら脱却、という感じなんですね。次は中級ということになるのですが、中級ではカメラの原理は当然覚えているものとして、写真の原理について学んで行くことになります。

 実は初心者のうちも中級者になっても、さらには上級者になっても、扱うのは光なんです。

 なぜなら写真って光以外に何も記録できないので、料理みたいになんとか酸がどうとか、化学反応がどうとか、そういう複雑なことはありません。美容師さんにお話を聞いても、驚くほど色んな薬剤を扱われていたりしますよね。それと比べると写真って実はものすごくシンプルです。光だけ。

 ですから、写真を撮ること自体が光を扱う、光を記録することに他ならないので、フレーズとしての「光を捉える」「光を見せる」みたいのは、むしろ当たり前すぎて何を言っているんだ君は、というレベルなんですね。

齟齬

 ところが、わたくしも20代なかばから本格的に写真を始めたので分かるのですが、写真をやっていない人ほど、写真に光しか記録できないという事実をスコーンと忘れてしまいます。もちろん全員ではないのでしょうが、実際に写真をやっている人であっても、心の奥底で「まさか光しか記録できないとか……なくない?」って思っちゃったりするんです。

 それはなぜかというと、やはり写真が絵画なんかと比べても明確に像を結びやすく、実物に寸分たがわず複写すると思われているからなんだろうと思います。だからこそ写真は条件付きとはいえ、あらゆるものに証拠として採用されるんですよね。

 この感覚は写真を本格的に勉強すると、いろいろなところで嘘がつけるのが分かってくるので、「まあ一応そのまま写る、といえないことはないが、それは印象の話であって厳密にはあれこれ変わっちゃうからむしろ苦労しているんだけどね」というような気持ちになったりします。

 具体的には、人間は肉眼でものを見ていると脳が補正してくれてしまうのに対して、デジタルもアナログも写真は正直に写りすぎることが多く、そのギャップをどうにかして埋めないと自然な写真に見えなかったりします。例えばパース(遠近感)の問題があったり、色や明るさの違いや、いわゆるボケでの前後の表現なんかもあります。ボケはぼかしたい、とボケる、が合致する場合は良いのですが、必ずしもすべてのシチュエーションでふたつが合致するわけじゃないですからね。またそれを人間が見た時に自然かどうかも別の問題ですから苦労は絶えません。

光ありき

 カメラの中のことを勉強し、あちこちへカメラを持ってでかけて光を記録し、スタジオで人工光を使って光を作り、モノクロで明るさの変化だけを追求し……というようなことを繰り返していると、最終的にたどり着くような感じで「そういえば写真って光しか記録できないよなあ」と思い出したりするのが人間の面白いところでありまして、だからこそ、あえて「光を捉える」というフレーズがちょいちょい出てくるんだろうな、と思います。

 今日の大塚写真は、前回このジャーナルブログにポストした大塚写真と違い、どろどろに曇っている日に撮ったものなんですね。今日のものはNikon Z6で撮っているのでカメラの違いも多少はありますが、一番大きな違いは光の違いによるもの。

 そのあたりじっくり見ていただけると嬉しいです。


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