橋本環奈さんの例でなぜ分からないのかが分からない


 こんにちは。

 最近、アート写真を制作するためのモデルさんを求めてあちこちの業界の様子を探っているのですが、つくづく日本の写真の扱いってこういう風だよなあ、というのを改めて思ったのでブログにしようと思います。

営業写真感覚

 日本で最近「アート写真ですよ」とメディアなんかに出てくる写真、たいがいが営業写真の感覚で撮られ、扱われているものなのが日本らしいなと思います。営業写真は、お客さんが自分で「撮ってください」と求めて写真館を訪れる商売で、被写体とクライアントが同じか、もしくは非常に近い関係性にあるのが特徴です。

 その場合、写真を見る際の価値観は「嬉しいかどうか」になりますよね。これって家族写真なんかの話であれば当然OK、ある意味正解です。だって「うちの子供が写っていて、親の目から見ると可愛いんだけど美的に優れていないから納得いかない」とか言い出す親御さんがいたらちょっと心配になります。

 問題は営業写真的な写真の見方ではなく、それが他の業種の写真にまで浸透してしまっていること。

 ちなみに最近よく見かける営業写真アートは、作品として虚心坦懐に評価する、美術史と照らし合わせでどうこうというアート側の見方で楽しむものではなく、自分が撮られることを仮定して共感できるようにしつらえられているものというふうに思います。

橋本環奈さんの例

 そういった営業写真的な写真の捉え方からすると対極的な写真の捉え方、良い例はないかなとあれこれ思い返してみたところ、橋本環奈さんの「奇跡の一枚」の例があったのを思い出しました。

 橋本環奈さんは、もともと福岡のご出身だそうで、Wikiepdiaによりますと

2013年5月、地元福岡の博多リバレインで開催されていたイベントにRev. from DVL(DVLの後継ユニット)のメンバーとして参加しており、そこで知名度急上昇のきっかけとなる「奇跡の一枚」にあたる写真が撮られることとなった[23]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%92%B0%E5%A5%88

 だそうです。私も当時、ネットニュースで頻繁に流れてきたのを覚えています。

 その際の写真の扱いって、珍しく営業写真的じゃなかったですよね。商業写真のコアの部分が現れているといっても過言ではないと思います。

 それはつまり、「良い写真があれば稼げる」を具現化していました。

良い写真があれば稼げる

 営業写真は、撮られた当事者およびその近親者が「嬉しいかどうか」が問われるものでありまして、その評価というのは、表面上の「ありがとう」であったりします。写真がより良いからギャラが10倍になる、ということはなく、ギャラのベースはほぼ作業量ベースであります。ありがとうが多いから単価が伸びるということはありません。

 それに対して商業写真の考え方というのは、「その写真を使えばより大きなお金が稼げる」ことを目指して撮影されるわけで、極端な話、得られる「ありがとう」がゼロであってもギャラに跳ね返る可能性があるジャンルです。

 実はこれ、技術全般にいえることで、優れた技術を持っていれば、それを換金して稼ぐことができるのですが、日本では営業写真の感覚が邪魔をして、「嬉しいかどうか」で写真を判断する人ばかりなので、商売をやっていてもいまいち写真の価値にピンと来てもらえない、というのがスタンダードでありまして、こりゃしんどいなとよく思います。

 下手をすると商売で写真を扱っている人であっても写真の質が分からない、という事がよくあり、こりゃ一体どうなってるんだ? と思うんですね。恐らく原因は前述のとおり、営業写真的な写真の見方が主流であることに加えて、世の中のメディアが疲れた日本人に合わせて共感ベースで人をものを作ることに慣れてしまっており、また作業と給与が分断されているサラリーマンが多い社会なので、技術、質をストレートに評価する習慣がないことが原因なんじゃないかと思います。習慣がなければ感性は育ちませんからね。

 橋本環奈さんの例でいえば、彼女はいわゆる「奇跡の一枚」を撮られ、それがインターネット上で流布したおかげで、東京に出てゴリゴリ稼ぐ機会を得たわけで、良い写真は稼ぐ機会を与えるツールということがいえると思うのですが、なかなかそういう感覚って商売で写真を撮っていても通じないんですね。持ち合わせている人がほぼいない。むしろそこが分かっていれば商売もあれこれ捗るのになあ……と思う例が大変多いんであります。私はコンサルじゃないんで「あーもったいない」と思って終わりなのですが。

劇団

 例えば下北沢の小劇場でやっている劇団を見てみると、酷い写真を使っていたりします。

 待って待って、良い写真を使わないと、既存のファン以外は写真以外に君たちのことを知るツールがないんだから身内しか来なくて死ぬよ、と思うんですが、自分たちがやっている内容、自負しているものと、対外的に見せるもの、赤の他人からこう見える、が完全に分断されているからそうなっちゃうらしいんですね。
 そもそも優秀な広報の適性のひとつが「よそからどう見えているか鋭敏に分かること」なので、自意識モンスターが集まりがちな劇団ではなかなか難しいのかもしれないと思う部分もあるのですが。

 劇団が酷い写真を使っているのを指摘すると、いやだって予算が、という言い訳が必ず出てくるのですが、役者の飲み代を一部でも広報費用に回せばすぐさまカメラマンのギャラなんて捻出出来るんですよね。これはしばらくあちこちの劇団とやり取りしていてつくづく感じたことです。出来るのにやろうとしないだけ、というか、「出来ると思っていない」「出来るように常識を変えることができない」んだろうなと思います。
 良い写真が必要かどうかではなく、良い写真が必要だと思わないことが問題なのですが、そこまで行かないパターンが非常に多いんです。あえて広報をしないスタイルの場合は写真もデザインも必要ないのでこの限りではありませんが、順当に外部へ情報発信したいのであれば、写真はツールとして使用せざるを得ないですからね。

 予算配分というのは面白いもので、配分を決定する人間の主観に結局は左右されちゃうんですよね。当人の中で当然だと思っているものを動かすのは、岩盤規制や既得権を破壊するのと同じで人間の生存本能にすら関わってくることであり、並大抵ではありません。またその部分にこそ、演劇的な人たちがイメージする「ダメだけど愛すべき」人間像が宿っているのかもしれので、よけいにバインドがきついのかもしれません。

酷い業界

 あちこちの業界を見て思うのは、「どうしたの?」と思うほどろくでもない写真ばかり見かける界隈というのがあって、そこでは何が起きるかというと、写真を楽しめる楽しめない以前に、その写真に写っている人たちがろくな人間に見えないという現象が起きます。写真を撮って流している人たちは、べつに被写体の社会的地位を引き下げようと思っているわけではないのに、他者から見ると「この業界の人たちはやばいな」と思われちゃうことがあるんですね。

 モノで例えると、鉄道写真を上手く撮れるグループとあんまり上手く撮れないグループがあるとしましょう。
 片方のグループが撮った写真をよその国の人が見た場合、「日本の電車ってカッコいいな~!!!」と思い、ひょっとすると日本に旅行に来たくなるかもしれません。それって橋本環奈さんの例と同じで、写真がお金を生み出しているんですよ。

 逆に、もう片方のあまり腕のよろしくないグループが撮った写真を見た人たちは、よくて素通り、下手をすると「日本の電車ってカッコ悪いな……」と悪印象を与えてしまうかもしれません。
 写真を教える立場としては、そこにビビって写真を撮るのを控える必要はないと思うのですが、写真は被写体あってのものですから、どうせ撮るならより良く撮って被写体の地位が向上するようなものであってほしい、というのが基本姿勢であるべきと思うんですね。

 ただそれは写真を撮る人間の内輪の話であり、外部からは写真そのものしか見えないわけで、その内外の差について、外部の人は非常にシビアに見ています。

 酷い写真ばかりの界隈というのは、写真がよろしくないにも関わらずガンガン外部に流れて行くことでイメージが悪化し、よその業界からの人材や資金の流入を妨げる可能性すらあり、これは「良い写真は稼ぐための良いツール」の逆を行く話ですね。

 ただ実際にそういう業界と接触してみて思うのは、そもそも良い写真を撮ってもらうことで、それをツールとして使って外部から人材や資金を呼び込もう、という感覚が業界内にないんですね。「良い写真=金の卵どころかほぼ金そのもの」と思ってもらって差し支えないんですが。下手をすると写真を直接販売して商材として扱うにも関わらず、写真の質が分からず、営業写真と同じ「嬉しいかどうか」で眺めるだけだったりします。そりゃよそからお金が流れ込んで来ないよな、と思うんですね。

 儲かる、というのは、身内でお金をぐるぐる回して偏在させることではなく、よその世界からお金が流れ込んでくることの方が重要なのですが、そのために越境するツールとして写真が有効……なのにその価値が理解されないのは悲しいな、ということです。

特定業界のカメラマンの地位と写真の質

 カメラマンが偉いから写真の質が高い、ということはイコールではないと思うのですが、前項のようにカメラマンが全然評価されず、感謝されなきゃギャラにも反映しない……というか仕事にすらならないレベル、という業界には、まともな腕を持ったカメラマンが居着いてくれなくて当たり前です。

 だからまあ、因果応報でもあるのですが、もしこれを読んでくれている方の中で、何かの業界を盛り上げたいと思っている方がいらっしゃるとしたら、写真に対する考え方を改めるのをおすすめします。具体的な内容はまた次回にしますが、写真の扱い方を変えるだけで、あなたの界隈からの発信の受け取られ方がガラッと変わる……はず。

 ということで次回はズバリ、「写真の扱い方を変えるには」です。

写真の印象を変えるのも一つの技術。

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