ポトレについて久々に考えてみた


 今日は2021年3月14日。日曜は毎週、運営しているオンラインサロンで添削配信をしているもんですから、なんとなく写真関係とくに撮る側のことについて考えたりTwitterで流したりすることが多くなっているような気がします。人間なんてそんなもんですね。無意識のうちにやることと考えることが連動していたりします。

 最近、Nikon Z6にSigmaの135mm F1.8 Art……正式名称は「135mm F1.8 DG HSM | Art」というやつですね、この組み合わせで通勤スナップをパチパチやっておりまして、折しも暦の上ではすでに春になっており、色んな花がそこらで咲き始めて撮るものがなかった冬場と比べると「撮るものがありすぎて困っちゃう!」という状況に近づいてきております。

 そうして花を撮りながら蜂かなにかのようにうろうろしていると、ふと「無責任に花を撮っているのと、無責任にポトレを撮るのってだいぶ似ているなあ」と思うんですね。

無責任なポトレ

 無責任、というと人聞きが悪いので一応解説しますと、ポトレはポートレートの亜種でありまして、カメラを使って基本的に女子を撮るものであります。表現としては日本特有で、恐らく海外とくに欧米の写真ファンからは、ちらちらとSNS越しに日本語圏のポトレ界隈を眺めては「ケッタイな……」と思っているんではと思います。文脈が全く違うから楽しみ方が分からないでしょうね。

 具体的にどういう写真? と思われた方は、Googleの画像検索で「portrait」、つぎに「ポトレ」と検索して写真の違いを確認してみてください。若い女子、ふわり半逆光、絞り開け、みたいなマニュファクチャードといって差し支えないレベルで似たような写真が大量にヒットするはずです。

 人物撮影であるということはそこに被写体として人間が関わるわけで、撮影どうこう以前に人としての付き合いであるとか、写真に著作権だけではなく肖像権も生じるよね、というような意味合いではとても無責任ということはなく、人物撮影の場合、写った人の人生が写真の出来栄えによって左右されかねないという意味ではちょっと恐ろしいことをやっているなと思う部分もあったりします。

 が、この場での無責任というのは、写真の出口設定から見た場合のことでありまして、写真をアート作品として扱うわけでもなければ、誰か特定の人にぶっ刺すために撮っているわけでもない、ただ撮るのが楽しいねー楽しいねーよかったきれいに撮れたねー技術の証明ができた機材の優秀さの証明ができた、という撮る側の論理バリバリでOKなところを指して無責任と称しています。

 商業撮影仕事と比べた時の、写真が良かろうが良くなかろうが誰かの商売が頓挫して従業員一同が露頭に迷うわけではない、楽しかったね、で済むという意味でも無責任でありまして、いやほんと楽しいのよ無責任なポトレって。

 「願わくばモデルさんがSNSで使うことで彼女の印象が良くなる写真であってほしい」という最低限の努力目標みたいなものは掲げて撮ったりするのですが、私の場合、ポトレをアート作品として美術業界に送り込んで写真作家として名を馳せるんだ! みたいな目的は全然ないので、努力目標は努力目標であり、という肩の力の抜けた感じになっています。

写真を見る側

 そもそもポトレって、皆さんどういうイメージをお持ちですか?

 ふわっとしたワンピースとか、温かい時期であれば麦わら帽子であったり、はたまたボディコンだったり謎のつるつるした素材のコスチュームであったりというような、どう見ても当世の流行りとは関係のないお洋服が多いですよね。あれは撮られる被写体の趣味よりも、撮る人がこういうのの方が喜ぶよね、というのを優先しているからああなるのです。

 つまりお客さんとして撮影しに来るおじさんたちの好みに合わせた衣装が多いのでファッション写真として見て楽しめるようなものではなく、しかも昇華しきれない怨念のような性欲が不用意に写り込んでしまっている写真がSNSで大量に流れてきたりしますよね。

 わたしも無責任なポトレを嗜みとして撮ることがあるので弁護すると、ありゃお客さんだから良いんです。ほとんどの場合、撮る楽しみ、カメラを操る楽しみを満たすために撮っているものであり、撮った写真をどうするこうするは度外視しているからああなるんです。

 日本在住の日本人カメラマンには当たり前すぎてその特異性が伝わりにくいのですが、よその国にヨドバシカメラはないんです。
 つまりどこの先進国であろうが、駅前に巨大な家電屋がドーンと建っていて、そこで消費耐久財としてプロ向けも含むごっついカメラが売っているというのは寡聞にして知りません。

 逆にいえば、日本は世界でも稀に見る、「ふつーのおっさんがいきなりごついカメラを買える国」であるということです。パリなんてブティックみたいな店構えでしたよ、カメラ屋さん。私みたいなヤンキー世界で育った人間にはちょっと入り辛いな、と思う感じ。シアトルのカメラ屋さんも東京でいう銀一みたいな、いきなりプロショップという感じで、ちょちょっと手を出してみようみたいな気持ちにはなかなかならないだろうなあ、という感じ。

 よその国では趣味として手を出し辛い、ちょっと高尚な趣味として扱われるものだからこそ、よその国でカメラを持って写真を撮っているとちょっと良い感じの扱いをしてもらえたりするわけですが、日本ではカメラが国産品であることも助けとなって、非常に手を出しやすい趣味なんですね。まずそこが全然違うんです。というか日本だけ特殊。

 ひょっとすると、ネット上の言語別にカメラや写真について言及しているものを調べてみると、日本語でカメラ関連を扱っているものが非常に多いかもしれない、と思います。

手を出しやすい趣味であるからこそ

 手を出しやすい趣味であるカメラ。カメラを買うところまでは非常にスムーズに進むのが日本という国です。

 しかしカメラは被写体がないと写真が撮れません。
 新しいレンズを買ってきて、外はもう暗いし夜景を撮りに行くほどの気合はない、仕方がないからと自宅でコップのふちを撮ったりした経験は皆さんお持ちだろうと思います。

 持て余されたカメラは被写体を求め、それがカメラのオーナーである男性の根源的な欲求である性欲にドリブンされて「女! 女が撮りてえ!」となるのは分かりやすい流れですよね。

 性欲の発露で写真を撮ることが悪いわけではなく、作品として昇華しきってしまえば良いと思うのですが、カメラ入手の手軽さ、お金を払えば被写体の女子と撮影場所をセッティングしてくれる業者さんの存在という二重の手軽さに加え、カメラを買うのが私も含め別に美術教育を受けたこともないそのへんのおっさんであることも手伝って、「良い機材で女子を撮るんだけど、鑑賞側の視点がない半端に性欲が滲んだ写真」というのが量産されています。

 カメラ趣味だって自由なんですから、被写体は好きなもんを好きなように撮れば良いのですから、私が砂利を撮るように、おじいちゃんが花を撮るように好きにすれば良いのですが、どうにもこう特殊な扱いをされがちというのは、以上のように条件が偏ってっからなんだろうなあ、と思います。世間の人たちに全然理解されません。

 健全な青少年であればヤンマガなんかに載っているいわゆるグラビア写真というのを見て「おお」と思った経験があると思うのですが、ポトレってグラビアとはちょっと違いますからね。せいぜいアイドル雑誌みたいな媒体があるだけで、あまりにSNSでよく見かけるポトレのお作法を踏襲すると、被写体サイドの「あまりがっつり見せると粗が目立つからやめて」という要求に応じることになり、情報量を削ぎ落としていったりするので商業的には使い辛い写真になったりします。

アートとして鑑賞しようとすると

 ポトレが世間の人に受け入れられにくいのは、これまで述べた他にもあれこれ理由があるのですが、最大にして根本的な理由は「見る人のために撮られていない」ことなんだろうと思います。言い換えるとカメラを扱う楽しみメインで話が進んでしまうので、撮る意思や動機が薄弱になってしまう、ということ。

 私も砂利や壁を撮っていると「難解ですね」と言われることがありまして、私としてはものすごく明快にやっているつもりなんですよ。そこに理があり筋があるじゃん、と思うんですが、それはコンテクストを共有している人間同士にしか通じないもの。

 もし自分のポトレ写真をアート作品であると認めてもらいたいと思うのであれば、アート作品を見慣れた人たちに「なるほどこれはアート作品ですね!」と認知してもらう必要があるのですが、そうやって認識され、流通するためには、アート世界でのものの考え方、見方というのに合わせていく必要があるんですね。

 例えるなら、よその国の人が魚を生で食べさせる料理を新規で開発したとして、「これも生で食うから刺し身という料理!」と言い始めたとしましょう。日本で刺し身のお作法に慣れている人間からすると、「いやこれ、たしかに生魚だけど処理も盛り付けもあれこれ違うから刺し身とは呼べないんじゃないかな……」みたいになると思うんですよ。

 同じように、ポトレをアートと呼ぶと「いやちょっと」ってなるのは、見る側の視点が決定的に欠けているにも関わらずアートと名乗ってしまうあたりにあるんじゃないかなと思います。アート側の勉強が足りない、つまりアートを見る人達がどういう風に作品を見るのかを考えずに「これはアートだ!」と言い張っても、たぶん通じないですよね。私自身、作品としての写真ってなんだろう? と取り組み始めてから数年経ち、ようやくそのあたりのギャップがわかってきました。

 ポトレの場合、残念ながらあれこれの理由でポトレ世界以外の、つまりポトレを撮る人と撮られる人以外が「いいねー!」となかなか参入できる感じになっていません。これはやってみると面白いんだけどもったいないな、と思ったりします。

 作品として他人に供するのであれば、他人が見られるような形にしつらえておく必要があるわけですが、見る人がどういう見方をするのかというところまで手が回らない人が多いように見受けられますし、写真を教えている側からすると、見る側を基準にした教え方ってだいぶ厳しくなっちゃうと思うんですね。

 私の場合、自分のところに来てくれた生徒さんについては、「好きなテーマを撮りましょう。でも根本的なルールは同じ」という形で、添削は常に「純粋に見る側からするとこう見える」という立場でしています。
 しかし、もし私がポトレの撮り方を専門に教えることにして、かつ集金効率の良さを考えるのであれば、写真を鑑賞する人にとってどうかなんていうことは無視して、撮る側の気持ち良さだけを追求した教え方をするでしょうね。つまりこうすればもっと気持ちよくなれるよ、というTipsを教える方向にどんどんスライドしていくでしょう。そうした目先のテクニックが好きな人はたくさんいますし、私も写真の勉強を始めた当初はそういった小手先のテクこそが写真なのかと勘違いしていたもので、それが全てと思う人がいてもおかしくない、罪はないと思います。気づいたら方向転換すれば良いだけですし、良い教材が増えれば小手先の教材が駆逐されていくでしょうからね。

誰を気持ちよくするためのもの?

 ポトレを撮る自分が気持ちよくなりたいという方向性も全然OKです!

 たとえば私の場合、ポトレを撮る際は目的が明確で、

  1. 機材を試したい
  2. 人間が撮りたい(試されたい)
  3. 被写体のPRの役に立ちたい

 この3つから外れることがまずないのですが、それも私の勝手な都合であって、何が目的で何を撮ろうが好きにすれば良いんです。表現は自由ですから。

 ただ、もしもポトレを撮っていて、なんでこんなに広がりがないんだろう? とか、ポトレっていうものがお作法化していて窮屈だと思うのであれば、それは写真の本質的なところへの入口のドアを叩いていることに他ならないと思いますし、脱却するための第一歩は「誰が写真を見るのか」というのをじっくり考えてみることだと思います。

 そうしてポトレでありながらポトレの枠を越えようとする人が一定以上集まってくると、西洋人の組み立てたアートの枠組みから外れて「日本人がポトレという文化を作った」といえる状況になってくるんではと思います。ポトレのコンテクストを組み立て、作品の強度を各自が増していく必要があるということですね。

 そうなると日本のポトレ界隈が創始者になるわけで、世界中からお金が流れ込んでくるシステムも保守本流のアート商売と同じように構築できるんでは……と思いますが、そういう枠組みが出来る日本人はほとんどいないのでなかなか難しいだろうなと思います。

 まあ群れるより先に個人でかなりのところまで戦える人材が集まらないと意味がないですしね。まずは個の強化が目標かもしれません。

 というわけで、また。


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