見る側と撮る側の決定的な違い


 こんにちは。最近ふと思ったんですが、写真を教える側として写真世界カメラ世界で日夜大量に流れてくるテキストや写真を見ておりますと、見る側の視点がどうしても欠けていますよね。

 わたくしオンラインサロンという形でクローズドな写真交流の場を持っておりまして、そこで生徒さんたちから毎週毎週写真を見せてもらいながら、この人達がより写真という言語を使いこなすには、一体どういう言葉でアプローチすれば良いだろう、というのを考えています。

 言葉は難しいもので、ひとつの概念が自分の頭のなかにある、と自分では思っていたとしても、相手にその概念がそのまま伝わるわけではありません。

 こういう時に拈華微笑をふと思い出しますねえ、不立文字。文字にならない、言葉にならないことをどう伝えるか問題であります。

写真も言語

 写真というのは面白いもので、基本的には「そこにあった」ものが写ります。

 ですから芸事としてはたいへん受動的なもので、それをきらってゼロから自分で仕込んで脳内のイメージを具現化するぜ、という意気軒昂な人もいますが、私は写真が受動的なものであるからこそ面白いと思うんですね。

 作ったものが嘘だから、ということはなく、どのみち写真はすべて嘘なので、程度の問題でしかなく、受動的だからといって起きたことがそのままデータとして記録されるかというとそんなこともなく、受け手である撮影者があれこれパラメーターを持っていますから、それによって記録される写真もぐにゃぐにゃと変わってしまいます。

 そうして変容することこそを指して「写真」と呼んでいるんですね。

 写真を教える立場として、とりあえず「正しく」撮れるようになろうぜ、原理原則を覚えれば個人の個性の違いでどうにもならないところの寸前まで行けるだろうから、そのさきは個人の信じる道を行けば良いじゃんという風に考えておりまして、逆にいえば目の前のものを「正しく」写す考え方というのが一応あります。

 そうしたことを毎日毎日飽きもしないでネチネチネチネチやっていると、ふと思うんです。これは撮る側の話ばっかりで、見る側のことを忘れていないか? と。

 写真は見る側あってのものなのですが、写真を撮りたがる人って機械いじりが好きなだけの人もたくさん混じっていますから、たとえば「かっこいい車を運転している俺」以外に興味がない人のように、「カメラを持ってシャッターを推している俺」が好きなだけの人もけっこういるんですね。車の場合、そういう人はどうなるかというと、周りにも一緒に走っている車がいる、というのを忘れて事故を起こしたりします。

 ありがたいことに写真で人が死ぬことはそうそうありませんから平和なものでありまして、写真の場合は見る人のことを考えていない写真というのはただ人に「いいね」と思ってもらえないだけで、逆にいえばいいねと思ってもらえないだけで済んでしまうからこそ誰にもツッコまれずに毎日色々なところで鑑賞者の存在を想定していない写真が量産されるわけです。

 まあそのあたりは好みの問題もありますし、絶対的に「良い」写真というのはそうそうないのですが、結局のところ見る側不在で写真だカメラだを語る機会というのが多く、これが日本で写真を見る側の写真ファンの数が増えていかない原因の一つだろうなあと思います。

順序の違い

 よくよく考えてみると、写真を撮る側と見る側って写真を見る順番が違うんですよね。

 撮る側はどうしても自分が機械を上手くコントロール出来ているか、他人が機械をコントロール出来ているかというような、表面的な技術の部分を気にするので、写真を細部から見がちです。

 しかし写真を見る人って、私も他人の写真を見る際つとめてそうしているんですが、全体を見ますよね。サッと。サーチするみたいに全体を眺めて、そこで興味が湧いた写真については、ようやく細部を見ます。

 この違いって写真の技術、特に機械のパートを勉強すればするほど忘れていくんですよ。特に前述のように、他人の写真をちゃんと見る癖がついていない人については、そもそも他人の写真を見たことがない、自分の写真も見たことがないままシャッターだけ押して「作品です!」とぐいぐい他人に押し付ける場合が多いんであります。

 まあ写真ビジネスという点で考えれば、乱立するフォトコンも、写真クラブのお互いにすら見ない写真展も、お金を回収する立場からすれば「見もしないんだけど写真を押し付け合う場を提供するかわりにお金もらいます」という商売が成立するのでありがたいことなのかもしれませんが、私は撮影者自身が見てもいないような写真を見せられても苦痛なので、お金を取って写真教育をしている身ではありますが、まず自分でちゃんと見ようねというのは遠慮なく言わせてもらっています。

 また前述のように、そうした鑑賞者を意識しないまま撮って投げ合って、とやっているので、写真を見るのが好き、という純粋な写真ファンが増えにくく、それが写真プリントが売れないんだけどカメラだけ売れるという状況に結びついており、そんなもん文化といえるのか? 大丈夫か? という気がするんですね。

 もちろん私がどうこう言ったところでアレですから、皆さんがどうするかは皆さんが決めれば良いのですが、私は現在の流れに加わる気はありません。

 誰かが食べることは想定していない料理教室とか、ね。ないでしょ。

結局

 写真が上手くなるコツって、写真を見るだけの人の気持ちを忘れないようにして撮る、に尽きるような気がしてきました。

 初級レッスンではメカのことをやるしかないのでメカの扱いを覚えます。でもそこから先は「好きなもんをつかえー」なんですよね。

 というような感じで、今日もパチパチ写真を撮っております。


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